3.11の思い出

 あの地震が起きたとき、私は参議院本館の3階にある控え室にいた。ちょうど、参議院の決算特別委員会が開かれており、政務官の秘書官をしていた私は、随行者用の控え室で国会中継を見ながら待機していた。
 揺れがおさまって、控え室から委員会室に入ろうとすると、血相を変えて部屋から飛び出してくる枝野官房長官(当時)とすれ違った。「宮城県震度7!」と叫んでいた。これは大変なことになったと思った。
 すぐに委員会室に入ると、天井のシャンデリアがまだ大きく揺れており、「シャンデリアの下から離れてください」という委員長の声が聞こえた。私は、まずは政務官の身の安全を確保するため、とりあえず議員会館に向かった。
 地震のためエレベーターが止まっていたので、階段を上って議員会館の事務所にたどり着き、テレビから次々に飛び込んでくる衝撃映像に目を奪われていると、やがて厚労省から大臣室に集合するように連絡があった。そこで厚労省に向かい、またもや階段で10階まで上って大臣室に入ると、大臣室では既に人が頻繁に出入りして、断続的に打ち合わせが始まっており慌ただしい雰囲気だった。

 当時の政務三役は、細川律夫大臣、小宮山洋子副大臣大塚耕平副大臣岡本充功政務官小林正夫政務官の5人。振り返ってみると、震災時にこのメンバーで本当によかったと思う。細川大臣は弁護士出身で、多少のことでは動じない。小宮山副大臣NHK出身でマスコミに強い。大塚副大臣は日銀出身で事務能力が高い。岡本政務官は医師。小林政務官は労働分野に強く、何より東京電力の労組出身だった。
 細川大臣は、震災対応が本格化するとすぐに、本当に重要な案件以外は、基本的な処理を大塚副大臣に委ねた。これは非常に賢明な判断で、なかなかできることではないと思う。こういう危機のときこそ自分の出番、と考えがちだが、実際にあのレベルの危機になると、重要な判断を要する案件が次々と上がってきて、とても一人では処理しきれない。それをすぐに察して大胆に権限委譲をしたのは、さすがに修羅場をくぐってきている人だなと思った。

 その「本当に重要な案件」の一つが、原発作業員の被ばく線量についての判断だった。当時、原発作業員の被ばく線量については、緊急時は100mSvを限度とすることが省令で定められていたが、福島第一原発での作業を行うため、これを引き上げてほしいという要請があり、省令を改正すべきかどうかを判断する必要があった。
 放射線審議会からは、既に、健康への影響を考慮しても250mSvまでの引き上げが妥当であるとの答申が出ており、また、原発事故の早期収束を考えれば、被ばく線量の引き上げもやむを得ないように思われた。だが、これは極めて重大な判断だった。なぜなら、そういったまさに緊急事態においても、労働者の健康と安全を守るための基準が100mSvだったわけであり、原発事故がいかに深刻だからといって、あるいは250mSv以下であれば直ちに健康への影響はないという専門家の意見があるからといって、これをすぐに引き上げるのでは、そもそもこの省令の意義は何なのか、ひいては、労働者保護とは何なのか、という労働行政の根幹に関わる問題だからである。
 この案件が大臣に上がったときの光景を、私は今でも覚えている。事務方から、どうしますか、と問われた大臣は、これまで見たことのないような苦渋の表情を浮かべ、うーん、と腕組みをして唸ったまま動かなくなった。誰も声を発する者はいなかった。この判断ができるのは大臣しかいない、と皆が分かっていたからだ。大臣がウンと言えば、事故収束のために働く労働者を危険にさらすことになる。いくら原発事故の収束が大事だからと言って、自分の判断一つで労働者を危険にさらすことが許されるのか。その決定ができるのはまさに大臣をおいて他にない。私は、大臣の双肩にかかる責任の重さに身震いがする思いで、大臣の姿を直視することさえためらわれ、うつむいて大臣の決断を待つしかなかった。

 今から考えると、もちろん東北で被災された方々とは比べるべくもないが、私自身も、職務を通じて、震災によって心理的なダメージを相当受けていたと思う。被災地で見た圧倒的な風景。避難所で生活する方々のお話。福島県庁に置かれた原子力対策本部の殺気立った雰囲気。防護服を着て福島第一原発にも行った。土日出勤が続き、被害状況が明らかになるにつれ、途方もない被害の大きさに暗澹とした気持ちになった。

 そんななかで、ホッとした印象として残っていることが2つある。
 1つは、休日出勤をしたある日のこと。私の家は、最寄りの駅から徒歩20分ほどのところにあり、普段は自転車かバスで通勤していたが、その日は、連日の休日出勤で気力が萎えていたこともあり、タクシーを呼んで駅まで行くことにした。タクシーに乗り込んで行き先を告げ、車が動き出してしばらくすると、不意に運転手さんから声をかけられた。「お役所のかたですか?休日出勤ご苦労さまです。こんな状況で毎日大変だと思いますが、頑張ってくださいね」と。私は当時公務員住宅に住んでおり、そこにタクシーを呼んだため、私が公務員だと推測したのだろう。何気ない一言だったが、心が荒みかけているところに意外なところから暖かい言葉をかけてもらい、思いがけず感動したことを覚えている。
 もう一つは、私がお仕えしていた政務官から掛けていただいた一言。震災から1か月が経ち、厚労省から議員会館まで公用車で移動している際、きれいに咲いている桜を見て、政務官は「○○さん、どんなにつらくても、春は必ず来るんだよ。がんばろう」とおっしゃった。私よりずっと責任とプレッシャーを感じているはずの政務官からの言葉は胸に沁みた。私が落ち込んでいるのを見て、そんな声を掛けてくれたのかもしれないと、今になってみればそう思う。