去年と一緒です

 早いもので社会人になってから13年を数えるようになり、資料の原案を作る立場から、最近では出来上がった資料をチェックすることが多くなった。はじめて係長になり、「係員が作成した文書に手を入れるのって新鮮だよね−」などとのんきに同期で話していたことが懐かしい。

 原案を作成する立場でいた頃は、「どうしてこんな細かいところまで修正するのだろう」とか、案文を前に何やら考え込んでいる上司を見て、「この人はいったい何を考えているのだろうか。修正するなり了解するなり、さっさと判断してくれぇ」と心の中で叫んでいたものだが、いざ逆の立場になってみると、何となく自分のイメージに合わない資料が出てくるたびに、「今さら一から作り直させるのも悪いしなあ」とか「こんなんだったら自分で作った方が早かった」などと余計なことを考えて、案文の前で固まっている自分がいたりする。

 私がはじめて係長らしい仕事をしたのは、雇用保険の担当をした5年目のときだが、資料をチェックしていて、いつも気になったのが、読み手の立場に立っていない文章だ。例えば、専門用語の羅列。あるいは、○○△△□□事業というやたら名前が長いくせにその内容が分からない事業名を説明なしで使うこと。特に、雇用保険ではさまざまな予算事業を実施していたので、この事業名のオンパレードには閉口した。その文書を書いている担当者にとってみれば、事業の内容が分かっていて当然かもしれないが、その文書を読む側にとってみれば、何の説明もなしにいきなり事業名が書いてあったとしても、どういった内容なのか、さっぱり分からない。もっとも、こうした背景には、本来「○○△△□□事業」ではなくて、「〜を実施する」とか「〜を行う」とか、内容を書き下さなければならないところ、一方で「○○△△□□事業」には複数の内容が含まれているために一言で書き下せない、という事情もあったりする。

 そして、何よりも一番ゲンナリするのが、「去年と一緒です」というパターンだ。去年と一緒であることが問題だ、と言っているのではない。継続性ということを考えれば、むしろ去年と一緒の方が良いということも多い。そうではなくて、私が言いたいのは、「ここはなぜこのような書き方になっているのか?」、「去年と一緒です。」、「じゃあ去年はなぜこう書いたのか?」、「・・・さあ。。。」、というパターンだ。つまり、何も考えずに前例をコピーしている場合だ。

 役所は前例踏襲主義と言われる。前例は、上に述べたように継続性という観点からは重要だし、説明責任を果たすことが常に求められる行政にとって、「前回もそうやっています」というのは、一つの理由になるのも確かだ。なぜなら、一定の合理性が認められたからこそ、過去にそれが実施されたと考えられるからだ。しかし一方で、何も考えずに前例に従っていると、やがて感覚が麻痺し、なぜそうなっているのかを考えられなくなる。極端な話をしているようだが、長年行政にいると、無意識のうちにこうした傾向が体に染みついてしまう。民主党政権になって行われた「事業仕分け」では、役所の説明能力の甘さが批判されたが、そこで私が感じたことは、我々が当然と思っていることが、一般の目から見れば当たり前ではないということが、いかに多いかということだった。事業仕分けのやりとりを聞いていると、(その指摘がいかに荒唐無稽であるかどうかは別にして)「こんなことまで説明しないと分からないのか」という、前提となる認識のギャップの大きさに驚いた。れんほう大臣(当時)が、「なぜ2位ではいけないのか」と発言して物議をかもしていたが、これなどは、まさに「そこからですか」といった類の質問だと思う(個人的には、事業の必要性を徹底して遡って考えるという点で積極的に評価すべきではないかと感じる。)。

 「去年と一緒です」という説明には、無自覚のうちに前例を肯定するという発想がひそんでいる。繰り返しになるが、前例を踏まえることは決して悪いことではないし、むしろ歴史に学ぶという観点からは重要なことだ。ただ、それが体に染みついてしまうと、「なぜそれが必要なのか」を問うことを忘れてしまう。たまには立ち止まって、「なぜ世界第2位ではダメなのか」から考えることも必要かもしれない。