新・働き方を見直す5 〜働くこと=金儲け?〜

 少し前になるが、ネットニュースで気になる記事があった。
 大阪府内の小学校4年生男子に、将来の夢について聞いた調査結果である。

 記事で、「子どもたちの声の要約」が紹介されている。――「有名なユーチューバーは1億円以上稼いでいる。もうあくせく勉強する時代じゃない。」

 ―――『スマホっ子の風景 竹内先生の新教育論 「夢はユーチューバー」勉強しない子どもたち(竹内和雄)』(毎日新聞2016年3月22日 大阪朝刊)http://mainichi.jp/articles/20160322/ddn/013/100/023000c

 ユーチューバーなら「あくせく勉強」しなくてもいいのかどうかはさておき、ここで気になるのはこの調査で示されている「働くこと」への意識だ。ここでは、働くことは金を稼ぐための手段である、という意識が明瞭に見て取れる。つまり、ユーチューバーになれば「面白い」とか「かっこいい」とか「人の役に立つ」とかではなくて、「1億円以上稼げる」ということが主眼になっている。将来の夢がユーチューバーであるのは、それがお金を稼げる職業だから、ということなのだ。(さらに言うと、あくせく勉強しない、という表現からは、地道な努力に対する忌避感が感じられなくもない。)

 「働くこと」はさまざまな側面を持つ。その一側面として、「金儲け」、すなわち生活の糧を稼ぐという面があることは紛れもない事実だ。

 でもそれだけなのか。

 昔の人たちは、働くことをどのように捉えていたのだろうか。中世ヨーロッパにおける勤労観について、E.フロムは次のように述べている。

 『中世社会では、経済的活動は道徳律に結びつけられていた。富が人間のためにあるのであって、人間が富のためにあるのではない。人間が身分相応な生活をするために、必要な富を追求することは正しい。それ以上求めればそれは事業でなく貪欲となる。貪欲は大きな罪である。(P.62-63)
 伝統的な生活水準を維持するのに必要である以上に、働かなければならないような要求は存在しなかった。中世社会のあるひとびとにとっては、仕事は生産する能力を実現するものとして、たのしいものであったように思われる。(P.101)』
 ――E.フロム(1951)「自由からの逃走」(原著は1941)

 つまり、生活を維持するため以上に働く必要はなく(それ以上に働くことは罪とされた)、働くことは能力を発揮する「楽しい」ものだった、というのである。
 もちろん、中世社会における労働は、分業が高度に進んだ現代と比べて、もっと身近で地に足のついたものだったであろうから、両者を安易に比較することはできないが、それでも、働くことが能力を発揮する「楽しい」ものだった、という見方は重要だろう。
 では、こうした勤労観はどのようにして変わっていったのか。

 E.フロムが論じたような、中世社会における必要以上に働くことを罪とする意識を変えたのが、プロテスタントの「禁欲」の精神である、と指摘したのがかのマックス・ウェーバーである。ウェーバーは、プロテスタンティズムにおいては、職業労働により利益を追求することは神が望まれることであり、そのことは、人々を財産の獲得に対する伝統主義的な倫理的制約から解き放った、と述べている。プロテスタンティズムの倫理が、利益の追求を禁じていた「枷」を破壊した、というのだ。

 そうやって変革をとげた人々の意識は、やがて時代の変遷とともにますます先鋭化していく。そのことを論じたウェーバーの記述は鮮やかだ。

 『勝利を手にした資本主義は、かつては禁欲のもたらした機械的な土台の上に安らいでいたものだったが、今ではこの禁欲という支柱を必要としていない。
 「職業の遂行」が、もはや文化の最高の精神的な価値と結びつけて考えることができなくなっても、そしてある意味ではそれが個人の主観にとって経済的な強制としてしか感じられなくなっても、今日では誰もその意味を解釈する試みすら放棄してしまっている。営利活動がもっとも自由に解放されている場所であるアメリカ合衆国においても、営利活動は宗教的な意味も倫理的な意味も奪われて、今では純粋な競争の情熱と結びつく傾向がある。ときにはスポーツの性格をおびていることも稀ではないのである。(P.493)』
 ――マックス・ウェーバー(2010)「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(原著は1904)

 働くことは、かつては道徳や宗教と結びついていたけれども、現代ではそうした意味が失われて、むしろスポーツのような競争の情熱と結びつく傾向があるが、現代人はそのことの意味を考えようともしないーーー100年以上前に書かれたとは思えない非常に示唆に富む指摘だと思う。

 こうして見ていくと、資本主義が高度に発展した現代において、働くことが利益の追求=金儲けと強く結びつくことは避けられないと思われるけれども、一方で、そうした方向に歯止めをかけることが必要ではないか、という主張も広がりつつあるように思う。
 たとえば、「世界でいちばん貧しい大統領」、ウルグアイのムヒカ前大統領の有名なスピーチ。

 『私の同志である労働者たちは、8時間労働を成立させるために戦いました。そして今では、6時間労働を獲得した人もいます。しかしながら、6時間労働になった人たちは別の仕事もしており、結局は以前よりも長時間働いています。なぜか?バイク、車、などのリポ払いやローンを支払わないといけないのです。毎月2倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。
そして自分にこんな質問を投げかけます:これが人類の運命なのか?私の言っていることはとてもシンプルなものですよ:発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです。』

 ―――打村明『リオ会議でもっとも衝撃的なスピーチ:ムヒカ大統領のスピーチ (日本語版)』(http://hana.bi/2012/07/mujica-speech-nihongo/)より抜粋

 このスピーチはテレビでも紹介され、大きな反響を呼んだ。日本でも、現在の生活スタイルや働き方に疑問を持つ人が多いことの表れだろう。

 以前、このブログでも、働くことを「卓越」という価値概念で捉え直すべき、という議論をした。冒頭で述べたように、働くことはいろいろな要素を持つが、金儲けという側面だけでなく、成長や人格の陶冶といった働くこと自体の積極的な側面にもっと注目すべきであると改めて思う。