制約を知る

 相手のある仕事をしていると、相手が思うように動いてくれずにイライラすることがある。利害がガチンコでぶつかる場合はともかく、基本的には同じ方向を向いているはずなのに、意見が対立して、お互いに相手が悪いと非難しあうようなことになるのはなぜだろうか。

 調整をするときに、相手の立場になって考えてみるというのは常套手段であるが、「立場」といってもいろいろあって、これがものの見方や関心ということになると、どうもうまく理解できないことが多いような気がする。それは、そもそも意見が対立する前提として、相手との信頼関係が築けていなかったり、純粋に相手のことをよく知らなかったり、ということがあるからではないか。相手のことが分からないから、相手の関心も分からない。ついには、「アイツは性根が曲がっている」などと相手の心持ちを非難したりする。

 そうではなくて、相手を知るということは、相手の制約を知るということだと思う。会社に入って一年目は、係長はなんて自由に仕事をしているんだろう、と思っていたけれども、実際に係長になってみると、自分の裁量なんてほとんどない。では課長になってみたらどうかというと、これも実は自分で決められる範囲は相当限られている。これは会社の中の話であるけれども、どんな人でも何らかの制約があり、誰だって自由に意志決定をしているわけではないのだ。

 相手にも制約がある、と考えることのメリットは、相手が自分の思うとおりに動いてくれなくても、(少しは)腹を立てなくて済むことだ。相手の行動は自分には納得がいかないけれども、もしかしたら、相手には自分の知らない制約があるのかもしれない。あるいは、相手もそうせざるを得なかっただけで、本意ではなかったかもしれない。特に、相手が団体の長など責任ある立場の人である場合には、下部組織や支持者の声のせいで、必ずしもその人の思い通りの行動が取れないことが実は結構多いような気がする。そうであるならば、目の前の行動だけで相手のことを毛嫌いするのはお互いに大きなロスだ。なぜなら、本当は相手と同じ方向を向いているのに、自ら壁を作ってしまうことになるのだから。

 そう考えると、やはりベースになるのは相手との信頼関係だ。確か外交についての格言で、たとえ片方の手で殴り合っていても、もう片方の手は握手をしていなければならない、という言葉があったように思うが、個人との関係もこれに似たところがあると思う。立場が違えば、ときには、相手と対立することもあるかもしれないが、そんなときでも、相手の行動の裏に隠された真意を信じることができるような関係を築きたいと思う。