流れに棹さす

 タイムトラベル物の映画や小説によくあるパターンに、過去にタイムスリップした主人公が歴史を変えようとするけれども、「歴史の修正力」のせいで、一時的に変わったように見えても結局元に戻ってしまう、というものがある。例えば、悲惨な飛行機事故が起こるのを知っている主人公が、それを防ごうとして飛行機会社に「爆弾を仕掛けた」と嘘の電話をしてその飛行機が飛ばないようにしても、その代わりに大きな列車事故が起きてしまう、といったものだ。

 「歴史の修正力」が本当かどうかはともかく、世の中には、個人の力ではどうすることもできない大きな流れがあるのではないかと思う。例えば、スティーブ・ジョブズがいなかったら、iphoneは生まれていなかったかもしれないが、その代わりに別の名前の似たような商品が発売されていたかもしれない。例えば、今の安倍総理がいなかったら、集団的自衛権の議論がここまで進むことはなかったかもしれないが、そのうちに同様の主張をする政治家が出てきたかもしれない。

 ジョブズ安倍総理といった人ですら、大きな流れの中にあってそれに逆らえないのであれば、私たちが社会に対して与えられる影響力はいかばかりであるだろう。毎日遅くまで仕事に追い立てられ、思うようにいかないと悩み、いろいろと苦労をして仕事を仕上げても、それがどれほどのものなのか。目の前の仕事に没頭して、それがうまくいったときは誇らしい気持ちになるけれど、少し冷静になってみれば、その仕事が本当に自分にしかできなかったのかと思うと甚だ自信がない。

 それでも、毎日の仕事に少しでも意味を見いだすならば、時計の針を少し進ませたり、遅らせたりすることはできるのかもしれない。大きな流れは変えられなくても、自分の仕事のおかげで何年かでも早く望ましい姿が実現できたり、あるいは望ましくない事態になるのを何年かでも遅らせることができるのなら、それで十分だと考えるべきなのだろう。それは諦観ではなくて、大それたことをしないという中庸の精神であり、また、自分ができなくてもいつかは誰かがやってくれるという一種の安心でもあるのだ。