Bitter memories about Korean

 「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産登録に関して、日韓の歴史認識の差が話題になっているが、私も韓国についてはほろ苦い思い出がある。もう10年以上前のことだ。

 学生の頃、私は国際交流のサークル(国際的な学生団体)に所属していて、同じ学生団体のソウル大学支部との交流会を企画したことがあった。サークルのメンバーから希望者をそれぞれ集めて、お互いの国を訪問して意見交換をしよう、といった内容で、まずは韓国側から始めようということになり、私は同僚や後輩を何人か連れてソウルに向かった。

 ソウルで韓国側のメンバーと合流し、ソウル大学や繁華街などを一通り観光した。若い大学生同士、しかも、お互いに国際交流のサークルに属していることもあって、非常に和気藹々とした雰囲気だった。

 その後、大学内の教室で意見交換の時間になった。日本と韓国で意見交換とくれば、当然、日本の戦争責任の話になる。でも、私は楽観していた。国際交流をしようと思って集まっている若い世代の我々が話し合えば、必ず分かり合える。それがこの会の目的だろうと。

 ところが、である。議論をしているうちに、お互いがだんだんヒートアップしてきて、ついには言い合いの喧嘩のような雰囲気になってしまった。議論は平行線になり、出口も見えない状況になったので、我々企画委員のメンバーが割って入って議論を止め、休憩にした。私と特に仲の良かった韓国側の企画メンバーは、とても悲しそうに首を振っていた。

 どうしてこうなってしまうのだろう。私はショックだった。なぜ分かり合えないのか。我々のようなメンバーが分かり合えないとしたら、一体誰が分かり合えるというのだろう。私は、日本と韓国が抱える問題の根深さを思い知った。

 そのときに言い争いになった一つのきっかけは、日本が戦争責任について韓国に謝ったかどうか、という点だった。日本人のメンバーは、皆、もう何度も謝っていると考えていた。韓国人のメンバーは、皆、まだ謝っていないと考えていた。それで言い合いが始まった。我々が若かったということもある。あるいは、英語でコミュニケーションをしていたために、細かいニュアンスが伝わりにくかったという面もあった。

 今から考えると、韓国のメンバーを苛立たせたのは、我々のこの問題に対する認識そのものというよりも、むしろ、「この問題はもう解決済みである」という我々の態度だったのではないか、と思う。韓国のメンバーも、仮にも国際交流に関心のある人たちばかりだ。こと日韓について歴史認識に食い違いがあることも分かってはいただろう。だから、たとえ我々の認識が彼らの認識と異なっていたとしても、それだけで感情的になったりすることはなかったのではないかと思う。それよりも、意見が食い違ったときに我々が(無意識のうちに)見せた、「どうしてこんなことに拘るのだろう」、「もう終わった話ではないか」という態度、そして、それに起因する我々の無関心や不勉強に、彼らが反発したのではないかと思う。

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 それから何年かして、日本では韓流ブームになった。歴史認識の差を埋めることは難しくても、実態として交流が深まることは、日本人にとっても韓国人にとっても大変良いことだと思っていた。交流が深まってお互いの感情が改善していけば、歴史認識の差も埋めやすくなるだろうと思った。

 しかしというかやはりというか、両国の溝を埋めるのはそんなに簡単ではないようだ。その後、竹島問題などで日韓の関係は悪化し、最近の内閣府の調査では、韓国に親しみを感じない、どちらかというと感じない、とする意見が過半数を占めるようになった。

 そして、冒頭に少し触れたように、世界遺産登録に関連して、日韓の歴史認識の差が改めて話題になっている。もし今回、世界遺産登録が先送りされたとしたら、日本人の韓国人に対する感情が更に悪化することは避けられなかっただろうから、結果として世界遺産への登録が合意されたことは良かったと思うけれど、その一方で、日本政府は「強制労働ではない」と言い、韓国政府は強制性を強調している。残念ながら、このことが報道されるたびに、両国民のお互いに対する感情は悪化するだろう。

 時間内に合意するために、お互いが自国民に対して説明できるぎりぎりのラインで文言を調整する、というのは理解できるし、おそらく他に手段もないのだろうと思う。でも、それによって、日韓それぞれの国内向けの説明の内容に違いが生じることで、この案件に対する日本人の認識と、韓国人の認識との間にも差異が生じることになる。こうした積み重ねが、結局、私が学生時代に経験した日韓の認識の差に繋がっているような気がする。