モダンタイムス

 「モダンタイムス」(伊坂幸太郎著、講談社文庫)を読んだ。ある意味で伊坂幸太郎らしく「ない」、メッセージ性の強い作品だった。
  小説なので解釈はいろいろあると思うが、私が受け取ったメッセージは、「誰が世の中を動かしているか分からない怖さ」、「よく分からないうちに物事が決まっていく苛立ち」、といったものだ。陰謀系という点では「ゴールデンスランバー」と似ているが、「モダンタイムス」では黒幕がはっきりしない分、やるせない気持ちやモヤモヤ感が強い。

 そのせいもあってか、最近、世の中の仕組みがどうやって決まっているのか、ということを考える。民主主義国家で誰が一番の決定権者かといえば、まずは総理大臣だろう。しかし、総理大臣もフリーハンドで物事を決められるわけではない。党内での力関係もあるだろうし、今の「ねじれ国会」では野党の賛成が得られなければ法律は通らない。何より「世論」に左右される。そもそも政治が関与できるのは社会のごく一部に過ぎない。逆説的だが、総理が代わっても世の中がそんなに変わらないことは、その証左といえる。
  では「世論」に影響力を持つマスコミか。確かにテレビや新聞は「世論」の形成に大きな影響を与える。だが新聞やテレビも自由に報道ができるわけではない。読者や視聴者、スポンサーの意向に左右される。人は自分の言いたいことをマスコミが言ってくれれば喜んで耳を貸すが、耳の痛い話は誰しも聞きたくないものだ。「世論」に沿った内容でなければ相手にされず、売り上げも伸びない。実際には、自由に報道どころか、ほとんど裁量の余地がないことも多いのではないか。

 そもそも「世論」とは何か。社会の雰囲気とか、世の中の漠然とした空気とか、そのような曖昧なものであると思う。そしてポイントは、それが特定の個人に帰着するものではなく、集団的なものであるということだ。世の中が「世論」に大きく左右されるとしても、その「世論」がどうやって動いているのかがはっきりしない。つまり黒幕がいないのだ。
  それが「国民主権」ということの一つの本質であると思う。我々は、「国民」として「主権」を有しているが、それは国民全体で広く薄く分担されているので、一人一人ができることは非常に限られている。そして権利の裏返しとしての責任も負っているのだが、あまりにもそれが薄いために、例えば(ダメな)総理を選んだのは結局は国民の責任だ、と言われてもピンと来ない。

 何か問題が起こると、それを誰かのせいにして、安心したくなるのは世の常だ。確かに個々の問題を見れば、特定の個人にその原因があることもある。しかし、社会全体の大きな流れ、トレンドというものは、なるべくしてそうなっている、言い換えれば、避けられないものであるという気がしている。例えば、少子化の流れ。少子化が経済の停滞や社会保障負担増などの要因となっていることは明らかだが、それは誰のせいなのか。例えば30年前にタイムスリップできたら、その流れを変えることができたのか。
  あるいは、日本が太平洋戦争に突入していったこと。調べれば調べるほど、日本がどうやったらあの戦争を回避できたのか、分からなくなる。欧米列強による侵略を防ぎ、拡張主義に遅れをとるまいとする日本。強硬路線に対する「世論」の熱狂。それを再生産する新聞。まるで深い沼に一歩ずつ引き込まれていくように、少しずつ少しずつ追い詰められていき、開戦の決断をした段階では、他に選択肢がなかったのではないか、とすら思える。 
 ――――そして、そうした「やむを得ない」判断が一つ一つ積み重なって破滅に向かっていくという構図は、今と全く同じではないかと思ってゾッとする。