当事者であること

 社会人になって2,3年目のことだったか、学生時代の友人と飲む機会があり、私の所属する役所を含む公務員改革の話になったことがあった。当然、話の方向としては、お役所仕事がどうにかならないのか、とか、癒着があるのではないか、といった、今の体制はけしからん、というトーンになった。そこで、私は、「そういうこともあるかもしれないけど、今の担当している仕事と違うし、入って2,3年目では如何ともしがたい」というようなことを言った。
  その発言に対する友人の反応が強烈で、今でも記憶に残っている。「お前がそんなことを言ってどうする。「部署が違う」というのは役人の常套句だ。2,3年目かもしれないが、お前は当事者だということを忘れるな。お前にできなかったら俺たちにはもっとできないんだぞ。」

 そのとおりだと思った。
  以来、「当事者であること」は私が仕事をしていく上での大きな指針の一つとなった(そして、「部署が違う」となるべく言わないことも。)。
 そのときの友人の発言は、公務員改革に関するものであったが、それからさまざまな分野で仕事をしていくにつれ、当事者であるという意識を持ち続けることの重要性を改めて実感する。霞が関にいると、どうしても、机上で物事を考えることが多くなる。2,3年で異動することが一般的である中で、当事者意識を失い、無責任に仕事をしてしまう誘惑に駆られることもある。忙しい状態が続き精神的・肉体的にも追い込まれている場合はなおさらだ。

  最近、「脱藩官僚」がよく報道されている。役所を辞めてまで正論を貫き通すという姿勢は立派だと思うが、一方では、当事者でなくなってしまうということは、“逃げ”であり、“負け”であるとも思う。当事者でなくなってしまえば、やりたいことができなくなるからだ。利害が複雑に絡み合う中で、自分が正しいと思うことをやり抜くには、批判に耐え、粘り強く周囲を説得し、泥にまみれながら半歩ずつでも前進していこうという強い意志が必要だ。仕事をしていく中で、そうやって物事を進めてきた先輩方を何人も見てきたし、私も法律改正に携わったときにはその一翼を担ったという自負がある。

 当事者であり続けることは大変だ。だが、ことに政策担当者の場合、評論家になったらおしまいだと思う。介護保険制度を創った先輩が、この前、「なぜそこまでの苦労をして介護保険制度を創ったのですか?」という質問に、こう答えていた。「いろいろな人と話しているうちに、制度を創ることができるのは、役人である自分しかいないと気づいた。意見が対立することも多かったが、話をしているうちに、最後は、「制度を創るのはあなたしかいない」とみんなが言うようになった。」と。
  入省してから10年余、ようやく、役人でいることの意味と重みを、実感し始めている。