自助と自立

 少し前になるが、京極高宣先生の講演を聞く機会があった。京極先生は、厚労省の審議会の座長や、国立社会保障・人口問題研究所の所長などを歴任された、福祉分野の大家である。

 先生の講演の中で特に印象に残ったのが、「自助」と「自立」の違い、ということだった。この文章を書くために、先生の主張をネットで調べてみたが、それとあわせた私なりの理解によれば、「自助」とはSelf-help、すなわち自らを自らが助けることであり、「自助努力」という言葉があるように、自分で努力する、という意味である。「自助・共助・公助」という言葉があるが、これは支え手(担い手)が誰であるかを区別している。つまり、「自助」とは(誰が支えるかという)「手段」を表す概念である。
 これに対して、「自立」とはIndependenceであり、他者に依存せずに自己決定ができる独立した状態をいう。つまり、「自立」とは「目的(目標)」を表す概念である。
 したがって、「自立」とは必ずしも「自助」のみで達成する必要はなく、「自助」、「共助」、「公助」を適切に組み合わせて「自立」を実現する、ということは当然ありうる。例えば、障がい者が就労により一定の工賃を得て、足らない分を障害年金生活保護で補うことによりきちんとした生活が営まれていれば、自立という目標に達することは可能である。
 この場合、「自立」しているかどうかのメルクマール(判断基準)は、自己決定ができるかどうか、ということであるという。例えば何らかの支援を受けるとしても、その支援を受けるという決定が、誰かに強制されたものでなく、自己の選択によるものであることが必要であるという。

 先生の話を聞いていて私が思ったのは、障害者自立支援法に対する批判についてだった。同法に対する理念的な批判の一つは、「自立」という概念に対するものだったと理解している。すなわち、例えば重度心身障害者のように、何らかの介助がなければ生きていくことができないような人に対してまで「自立」を求めるのか、それは、「自立」の押しつけであり、強制ではないか、という批判である。
 この点については、上の整理によれば、「自立」とは目標であり、「自立」を実現するための手段としては、「自助」のみならず、「共助」や「公助」も当然含まれるから、常に介助が必要な人についても(自己決定が可能であるという意味での)「自立」を目指すことは可能であり、むしろ目標としては「自立」を掲げるべきである、ということになるのだろう。
 もっとも、障害者自立支援法は、昨年6月に改正されて「障害者総合支援法」となり、第一条の目的規定にある「障害者及び障害児が自立した日常生活又は社会生活を営むことができるよう」という表現は、「障害者及び障害児が基本的人権を享有する個人としての尊厳にふさわしい日常生活又は社会生活を営むことができるよう」という表現に改められた。「自立」という言葉が法律名や目的規定から削除されたのである(ただし、他の条文では「自立」という表現は残っている)。これはおそらく、「自立」という言葉に対する批判に対応してのことだろうと思う。

 このように、「自立」と「自助」に着目すると、ほかにも気になる表現がいくつかある。例えば、介護保険制度の要介護度の認定において、介護保険の給付の対象とならないことを「非該当」というが、多くの自治体で、「非該当(自立)」という表現が使われている。これは、介護保険を使う必要がない=自立という考え方だと思われるが、逆に言うと、要介護認定を受けた人は自立していないのか、という議論を招くおそれがあるようにも感じる。私が厚生労働省のHPを見る限り、「非該当(自立)」という表現は見当たらないが、多くの自治体で同じ表現が使われているところをみると、かつて、厚生労働省がそのような表現を用いていたのかもしれない。

 また、先日発表された社会保障国民会議の報告書をみると、

「日本の社会保障制度は、自助・共助・公助の最適な組合せに留意して形成すべきとされている。これは、国民の生活は、自らが働いて自らの生活を支え、自らの健康は自ら維持するという「自助」を基本としながら、高齢や疾病・介護を始めとする生活上のリスクに対しては、社会連帯の精神に基づき、共同してリスクに備える仕組みである「共助」が自助を支え、自助や共助では対応できない困窮などの状況については、受給要件を定めた上で必要な生活保障を行う公的扶助や社会福祉などの「公助」が補完する仕組みとするものである。

という表現となっているが、これをもとに閣議決定された、いわゆる「社会保障改革プログラム法案の骨子」をみると、

「自らの生活を自ら又は家族相互の助け合いによって支える自助・自立を基本とし、これを相互扶助と連帯の精神に基づき助け合う共助によって補完し、その上で自助や共助では対応できない困窮等の状況にある者に対しては公助によって生活を保障するという考え方を基本に(後略)」

となっている。
 似ているようだがよく見てみると、国民会議報告書が「自助」のみで「自立」という表現は使っていないのに対し、法案骨子では「自助・自立を基本とし」と、「自助」と「自立」の二つが併記されている。後者においては、「自助」と「自立」の使い分けについてあまり意識していないようにも見えるが、こうした表現は、先の京極先生の整理に従えば、手段と目標とが混在しているということになるのではないだろうか。些細な違いのようだが、ここは改革の理念の一つのポイントとなる重要な部分である。実際、新聞でも「自助・自立を基本」といった見出しが使われている。もっともこれは法案「骨子」なので、実際の法案の段階では、そのあたりの整理がきちんとなされるのかもしれない。法案は秋に提出されるようなので、法案の条文に注目である。

 このほか、私が現在担当している児童福祉の分野でも、「自立」は重要なキーワードだ。社会的養護に関する研究報告やエッセイを集めて年一回発行される「子どもと福祉」(明石書店)という雑誌があるが、その今年号の特集が「社会的養護の子どもの自立支援とアフターケア」。その中に、子どもの自立支援の施設を運営している星さんという方が、以下のように書いている。

「自立する」とは支えを必要としない状態になることなのでしょうか?(中略)独りぼっちでは誰も生きていけない。これは昔から言われていることですが、自立に必要なことは、何かできるようになること以前に、適切に他者に依存できる能力なのです。」(星俊彦「自立援助ホームで「自立」について考える」)

 確かに、自分の生活を振り返ってみても、誰にも頼らず一人で生きているわけではもちろんなく、親をはじめとして知人、友人や近所の人たちからの支えがあることで安心して暮らしていくことができている。その意味では、「自立」とは「自助」だけで生きていくということを意味しないことは当然であるが、ここでのポイントは、星さんの言葉を借りれば「適切に」他者に依存する、というところだと思う。というのは、児童養護施設で育った子どもたちは、一般に、虐待を受けたことなどによって自尊感情や自己肯定感が低いといった個人的な要因や、周囲の人に世話をしてもらうのが当たり前という環境で育ったという環境的な要因のために、周囲をまったく頼ることができずに孤立してしまったり、あるいは逆に依存しすぎてしまったりすることが多いからである。大分県では、全国に先駆けて、児童養護施設等を退所した子どもたちの自立支援を専門に行う「児童アフターケアセンターおおいた」を平成23年度から設置しているが、その職員に話を聞くと、親身になって支援を行いつつも、いかにして子どもを依存させずに自主性を引き出していくかが難しいという。例えば、仕事を見つけるにしても、全部センターで手配してしまうと本人のやらされ感が強くなってかえって長続きしないとか、保証人の問題が出たときは、一度は本人に苦労して探させて、いよいよ見つからないときに支援するとか、いろいろと工夫をしながら取り組んでいるようだ。

 以上いくつか見てきたが、福祉の分野における「自立」という考え方は、実は平成12年の社会福祉基礎構造改革の中心的な理念の一つである。同改革では、福祉分野における従来の「保護」中心の考え方から、「自立支援」へと大きな理念の変更が謳われた。こうした理念の変更を踏まえて実施されたのが障害者自立支援法介護保険法であり、障害者福祉や高齢者福祉の分野では、この間、障がい者や高齢者が地域でいかに暮らしていくことができるかという点にさまざまな取り組みがなされてきた。その意味では、今になってようやく「自立支援」が注目されつつある児童福祉(社会的養護)の分野は、取り組みが遅れているという感が否めない。社会的養護の分野において、自立支援をいかに進めていくかが今後の大きな課題の一つである。