内と外

 日本の社会には、「内と外」を明確に区別し、「内」には高い保護が与えられるが、「外」は非典型として冷たく扱われる、という構造がいたるところに見られる。例えば、いわゆる「正規労働者」と「非正規労働者」の問題。「内」=「正規労働者」になることができれば、雇用が保障され、容易に解雇されることはない。社会保険の適用を受け、労働組合の保護も受けられる。しかし、「外」=「非正規労働者」となると、雇用や賃金といった面で、非常に不安定な立場に置かれる。

 もう一つの例として、認可保育所の問題がある。この場合は、認可保育所を利用している家庭が「内」で、認可保育所に入れない家庭が「外」だ。認可保育所に入ることができれば、資格を持った保育士がいて、十分な面積のもとで、所得に応じた負担で保育を受けることができる。一方で、認可保育所に入れなければ、高い保育料を払って、場合によっては質の劣る「認可外保育施設」に預けるか、あるいはそもそも保育の利用をあきらめざるを得ない。

  そして、両方の例に共通しているのが、「外」を代弁する声がとても届きにくい構造になっているということだ。例えば、労働組合は基本的に「正規労働者」が加入するものであるから、そのナショナルセンターである「連合」は、構造的に「正規労働者」の声を代弁することになる(もっとも、最近は、連合もこうした批判に応えて「非正規労働者」の待遇改善にも取り組み始めている。)。また、全国を代表する保育団体は、「認可保育所」の意見(及び「認可保育所」の利用者の意見)を代弁している。
 「内」を代弁すると、その主張は、「内」と「外」との壁を高くして、「内」の中を守ろうというものになりがちだ。「内」への参入が規制などによって制限され、そこに一定の利益が発生する場合はなおさらである。この場合、「内」をなるべく広げないように、という圧力がかかりやすい。「内」を広げれば、その分、自分の取り分が減る可能性が高いからだ。司法試験合格者を増やすことに弁護士団体が反対するのも、同じ構造だろう。

  「内」を典型として保護し、「外」を非典型として排除するこうした仕組みは、構造的に「外」から「内」への移動を促すから、社会統合という面からは都合の良い仕組みであったとも言える。良い大学に入って、良い企業に終身雇用され、専業主婦家庭で子どもを持つ、という「典型」を大量に生み出すことは、社会システムとしては効率的だった。
 しかし、やがて経済成長が頭打ちになって、パイの拡大が望めなくなってくると、人々の価値観も多様化し、これまでの「典型」(=「内」)とされていた概念が崩れ始めた。同時に、これまで「非典型」(=「外」)とされていた人たちが増え、もはや例外とは言えなくなってきた。雇用者のうち、非正規労働者は3分の1を占めるようになり、待機児童は分かっているだけでも2万5千人を超えている。「外」は非典型だから、放っておけばいいというやり方は、もはや通用しなくなっている。

  そこで大切なのは、「外」にいる人たちをいかにして「内」に取り込んでいくかということと、「外」にいる人々に対しても、一定の保護をきちんと与えていくということだと思う。雇用の例でいえば、前者は非正規労働者の正社員転換を進めていくことであり、後者は非正規労働者と正規労働者との均衡・均等待遇の問題である。あるいは保育所の例でいえば、前者は認可保育所を増やしていくことであり、後者は認可外保育所にも一定の支援をしていくことである。

 もう一つ、忘れてはならないのは、「外」にいることで、「非典型」と切り捨てられ、十分な支援を受けられなかった人たちがいるということである。例えば、父子家庭、発達障害外国人労働者(二世)、その他こうしたカテゴリーにすらうまく当てはまらない生活困窮者。特に、生活保護については、憲法で保障された最後のセーフティネットにもかかわらず、その支援が十分に行き届いていないのではないか。私は、以前このブログでも書いたように(※)、社会保障を社会契約として捉える立場なので、生活保護についても、受けるべき立場の人は、胸を張って堂々と受給すべきだと考えているが、今の生活保護制度は、受給することで、逆に誇りを失うような制度になってしまっているのではないだろうか。これについては、またいずれ、稿を改めて書きたいと思っている。(つづく)

※以前書いたエントリー「社会保障の道徳的基礎③」:http://d.hatena.ne.jp/sadaosan/20110813/1313231250