ソーシャル・キャピタル

 先日、祖父の13回忌があり、久しぶりに親族で集まる機会があった。祖父・祖母には子ども(私の母の代)が3人おり、さらにそこから3人ほどの子ども(私の代)が産まれ、さらにそこから子ども(私の子の代)が産まれている。それぞれの配偶者を含めれば、20人を超える人数になる。当日は、都合が悪く欠席者も何人かいたが、それでも全部で17人が集まり、お坊さんも「ずいぶん多いですねえ」と驚いていた。

 母方の親戚は、私が子どもの頃から仲が良く、いとことも幼い頃から旅行に行ったりして遊んでいた。さすがに最近では会うことは少なくなったが、こうした法事で集まると、今でも思い出話に花が咲く。当時は子どもだった兄弟やいとこたちも、今ではそれぞれのフィールドで立派に活動している。普段はやりとりしていなくても、いざというときには頼りにできる存在が身近にたくさんいることは、やはりとても心強いものだ。

 ソーシャル・キャピタルとは、人と人とのつながり、信頼といった価値を「資本(キャピタル)」として表した概念だが、その最も基本的な単位は、家族や親戚といった身近な人とのつながりだろう。「真の贅沢とは人間関係の贅沢だ」とは、「星の王子様」を書いたサン=テグジュペリの言葉だが、年を取るほど、人間関係がいかに大切かということが身にしみて分かってくる。その点では、上に書いたように、幼少期から良い家族関係を築くことができた私の環境は、非常に恵まれていたと思う。

 こんなことを考えるようになったのは、仕事で、大変な家庭をたくさん見るようになったからだと思う。子どもに暴力をふるう親やネグレクトする親のみならず、DV家庭、ひとり親家庭、親子ともに精神疾患を抱える家庭、あるいは人付き合いが苦手な親など、周囲に助けを求められず孤独に子育ての悩みを抱え込んでいる家庭の何と多いことか。家族は、人間関係の最も基本的なモデルである。家庭環境が落ち着かず、親や兄弟と人間関係を築くことができないと、他者との人間関係をどうやって築いていくのかが分からなくなる。それは、その後の人生において大きく不利になることを意味する。

 大切なことは、どのような家庭に生まれるかは、まったくの偶然であり、本人に責任はないということだ。人付き合いがうまい人は、周囲に気を遣ったり、我慢したりと、それなりに努力をしているのは確かだが、そういった努力ができるという基盤は、本人に責任のない、家庭環境の中で育まれるものだろう。健全なコミュニケーション能力を持つためには、本人の努力だけではいかんともしがたいという家庭が、残念ながら一定程度存在するのだ。

 だからこそ、こうした家庭に育った子どもに対しては、社会は、十分に支援をしなければならないと思う。繰り返しになるが、どのような家庭に生まれるかは全くの偶然であり、本人に責任はない。それにもかかわらず、生まれついた家庭の状況によって、本人のその後の人生は大きな影響を受ける。だから、少なくとも、生まれついた家庭の状況を理由とするハンデが解消され、どのような家庭に生まれても、同じスタートラインに立てるようなレベルの支援が必要であると思う。どのくらいのレベルの支援が必要と考えるかは、人によって異なるだろうが、それを考える上で、参考になる一つの思考実験がある。想像してみてほしい。もし、自分が恵まれない家庭に生まれるとしたら、どういう社会であってほしいかを。そう考えてみることで、どの程度の支援がフェアであるのか、その人なりの判断基準が示される。

 残念ながら、現状は、どのような家庭に生まれても、同じスタートラインに立てるような水準の支援がなされているとは、到底言えない状況だ。その原因の一つは、現在の民主主義のシステムの中では、代弁者がいないこうした子どもたちの声が、なかなか届きにくいことにある。少子化の深刻さが理解されはじめて、ようやく最近になって、子育て支援の充実の機運が高まってきたようにも感じるが、保育所の充実や働く母親の支援など、一般的な対策がやっとであり、こうした恵まれない立場にいる子どもたちへの支援は、まだまだ光が当たっていない。行政として、こうした子どもたちへの支援をしっかり行うのはもちろんだが、社会の後押しがなければ、大きな力にはならない。厳しい状況にある子どもたちの現状を伝え、社会の理解を得られるように努めることも、プロとしての責務だと思っている。