決められない政治

 いよいよ衆議院が解散され、来月には総選挙を迎える。選挙になると、政治に関する報道も多くなるが、最近読んだ「ヒーローを待っていても世界は変わらない」(湯浅誠著、朝日新聞出版)に大きな刺激を受けた。既にフェイスブックなどでは話題になっているが、とても分かりやすくて面白い本だと思う。特に政治や民主主義に興味がある方にはぜひ一読をおすすめしたい。

 この本の中で、私がもっとも気になった部分の一つ(この日本語訳は昔から変だと思う)が、「政治不信の質的な変化」に関する湯浅氏の主張だ。氏は、「橋下現象」を例にとって、国民の政治に対する不信が、政治家個人や政党、政策から、「政治システム」に対する不信へと変化している、と主張している。すなわち、橋下市長の主張は、大阪都構想や、道州制、首相公選制、参議院廃止など、統治機構に関するものが多いが、それが一定の支持を得ているのは、国民の批判が、政治家個人や政策の内容でなく、民主主義という政治システムそれ自体に向いているからではないか、というのである。

 それを裏付けるようなデータが、平成24年版の厚生労働白書にある。次のデータは、OECD各国の政治制度や公的機関への信頼度を尋ねたものである。

(出典:厚生労働省編「平成24年版厚生労働白書」pp.122)

 これを見ると、日本では、(全体的に信頼度が低いということはあるとして、)議会と政府とに対する信頼度を比べると、議会への信頼度の方が、政府に対する信頼度よりも低くなっている。これは端的に言って、上に示したような、国民の「政治システム」そのものに対する不信のあらわれであると思う。他の国のうち、こうした傾向を示しているのは韓国であるが、そのほかの国々では、おおむね、議会の方が政府よりも信頼されている(余談になるが、アメリカが意外に議会と政府の信頼度が変わらない点や、韓国の差が大きい点など、なかなか興味深い調査である。)。役人としては、五十歩百歩とはいえ議会よりも政府が信頼されていることを嬉しく思わないでもないが、政治システムへの不信は、統治の正当性に対する疑義であり、より深刻であるとも言える。

 政治に対する批判として、最近マスコミなどでよく耳にするのが、「決められない政治」というフレーズである。湯浅氏も著書で言及しているが、この「決められない政治」というフレーズは、少数意見を尊重し、ぎりぎりまで議論をするという民主主義の根幹を揺るがしかねないものだと思う。国の政策は、強制的に徴収される税金を原資とし、一律に適用することが原則だ。したがって、反対する人たちに対しても、いったん政策が決まってしまえば、強制的に適用することになる。だからこそ、政策を決める上では、少数意見を尊重し、反対する人の意見にも耳を傾けることが必要なのだ。それなのに、「決められない政治」という批判には、「中身は何であれ、決められないことが問題だ」という含意があり、こうした丁寧なプロセスをすっ飛ばして、とにかく決めることが良いことだ、という乱暴な主張につながりかねないのではないか。

 さらに気になるのは、「決められない政治」というフレーズには、「決めるのは政治(家)であって自分ではない」というどこか他人行儀な響きがあることである。確かに、法律の議決は国会が行うことであるが、だからといって政治は政治家だけがするものではない。それどころか、市民レベルでの討議の積み重ねこそが、質の高い民主主義のためには不可欠なのであって、そうした議論を避けて、自分に都合の良い決定だけを政治家に求めるのでは、民主主義という仕組み自体が成り立たなくなってくるのではないかと思う。

 大きな期待を背負って政権交代を成し遂げた民主党が、結果的にマニフェストを達成できなかったことで、政治システムに対する不信が広がった。その意味で民主党の罪は大きいが、ずっと野党であった民主党が、きちんとしたマニフェストを作るのは難しかったという面もあるだろう。その意味で、次の選挙は、与党経験のある党同士が、実現可能な政策で競い合うという、本当の意味での政権選択の選挙になりうる。ここでまた突拍子もない公約を掲げる政党が躍進して、結局実現できずに失望感が広がる、ということがないと良いのだが。。。