閑話休題〜子育ての素晴らしさ〜

  働き方の見直しについて書きたいことはまだまだあるが、少し休憩して、今回は、いまさらではあるが子育ての素晴らしさについて書いてみたい。

 はじめにお断りしておくと、私には8歳の長女と2歳の長男がいるが、妻は専業主婦で、率直に言って「おいしいとこ取り」の育児だと思う。私の友人(男性)で、奥さんがフルタイム、本人が(男性にもかかわらず)短時間勤務をしているというカップルがいて、その友人は、「育児が楽しいなんてのは育児をしていない人が言うことだ」と言い放ったが、実際にはこれに頷ける方も多いのではないだろうか。だから私は、自分が他人よりもたくさん育児をしているというつもりは全くないし、自分の育児がいいとこ取りだということも自覚している。それにもかかわらず、前回書いたように、特に父親に子育ての素晴らしさが伝わることが、働き方を見直していく上で重要であると考えて、あえて、ここで自分の思いを書いてみたい。

  子育ての素晴らしさでまず挙げたいのが、子どもは「無償の愛」を心置きなく注ぎ込める相手である、ということだ。かつて、「愛されるよりも〜愛したいマジで〜♪」という歌があったが、自分の愛を遠慮なく注ぎ込める対象があるというのは、幸せなことだと思う。小さい体をぎゅっと抱きしめたり、柔らかいほっぺたをすりすりしたりしても、誰にも文句は言われない。子どもの方も、当たり前のように愛情を求めてくるし、いちいち感謝なんてしてこないが、それがまたかわいい。子どもと積み木で遊んだり、おむつを替えたり、風呂上がりの体を拭いたりしていると、人に何かをしてあげるということで自分がどれだけ癒されているかがよく分かる。

 そうやって子どもとふれあっていると、自分には家族という世界があるのだということを再認識する。私は毎朝、上の子を幼稚園に自転車で送ってから出勤していたが、子どもを後部座席に乗せて自転車を漕いでいると、会社でいろいろあっても、そんなことは大したことではないと思えてくる。会社に入って10年もすると、いつの間にか、会社の世界が自分にとって全てであるように思い込んでしまい、そこで失敗すると、自分の全てが否定されたように感じていたが、自分には、会社という世界だけでなく、家族という世界もあるということを再認識したことで、気持ちがずいぶんと楽になったのを覚えている。法改正のときは、肉体的・精神的にかなり追い込まれていたが、毎朝子どもを幼稚園に送っていくひとときが、今から思えば良い息抜きになっていたのだと思う。

 同じことは、地域という世界についても言える。私が1か月育児休業を取って気づいたことは、コミュニティは子どもを中心として繋がっている、ということだった。私は人見知りをするタイプなので、さすがにお母さん方の井戸端会議には参加できなかったが、例えば、幼稚園に毎日お迎えに行ったり、小学校の就学時前検診に参加したりすると、自然に顔見知りも増え、スーパーで会ったりすると会釈を交わすくらいにはなる。年齢も職業も異なる地域の人々にとって、子どもは確実な共通の関心事項であり、強力な結節点だ。そういうコミュニティに「○○ちゃんのお父さん」という形で属している、ということを実感することは、それまで関心がなかった地域の防犯とか、お祭りとか、清掃とか、そういったいわゆる地域活動への意欲がだいぶ違ってくる。

  そして大切なのは、こうしたことは、子どもが小さいうちでなければ経験できないということだ。子どもはあっという間に大きくなってしまう。社会人になって10年はすぐだが、子どもが産まれてから10年経てば、もう小学校4年生だ。特に子どもが小さいうちは、子どもは日に日に成長しており、その時々の子育ては、その瞬間にしかすることができない。後からアルバムを見て、この頃はかわいかったな、と思っても、決してそのときに戻ることはできないのだ。私も、下の子が現在2歳になるが、実は上の子がその位の歳の記憶があまりない。上の子が1歳のときに留学先から日本に帰ってきて、一年ほど仕事がとても忙しくて子育てをしていなかったので、そこの部分の記憶がすっぽり落ちているのだ。今となってはもったいないことをしたと思うが、もうどうしようもない。

 はっきりしているのは、子どもは、自分が手をかければ確実にその分返してくれる存在であるということだ。前回も書いたように、子育てをして一番メリットがあるのは、国でも社会でもなく、父親自身だと思う。だからこそ、改めて呼びかけたい。―――全国のイクメンよ、立ち上がれ!―――(つづく)