ビジョンとは何か①

 休憩ついでに、ビジョンについて最近考える機会があったので少し書いてみたい。

  ビジョンが大切だ、ということをよく聞く。だが、ビジョンが何かということはイマイチはっきりしない。政治の世界では、「ビジョンがない」というのが批判の常套句で、総理の所信表明演説が終われば、必ず野党は「ビジョンがない」と言う。総理だってそう言われることは分かっているから、自分の演説にきちんとビジョンを盛り込んでいるはずだが、それにもかかわらず必ず批判される。なぜか。ビジョンがあっても伝わっていない、ということなのか、それとも、内容がビジョンとは言えない代物だということなのか。

 そもそもビジョンとは、組織の進む方向を示し、メンバーがそれに向けて一致団結できるような、力のあるものだとされる。しかし、私はそういう力のあるビジョンのイメージをうまく持つことができなかった。当省でも、何年か前に、シンボルマーク・キャッチフレーズの策定や、「行動指針」と呼ばれる“ビジョン”を作ったことがあるが、残念ながらあまり浸透していない(その策定プロセスは、できるだけ多くの職員を巻き込もうという努力はしていたにもかかわらず、である)。率直に言って、いわゆる「お仕着せのビジョン・ステートメント」というものになってしまっている感は否めない。例えば、アップルでは、カリスマ経営者であるジョブズが、素晴らしいビジョンを掲げ、社員も創造性にあふれた仕事をしていた、というような記事を目にするが、もし自分がアップルに入社したら、はたしてそのように働けるのだろうか。

  そんなことを考えているとき、友人が主催する勉強会で、私が講演する機会があった。テーマは、「政策はどうやって決まっているか〜政策の限界と制約〜」。政策もフリーハンドで決まっているわけではなく、財政制約や民主主義のプロセスから来る制約、少子高齢化などによる制約などがあり、そうした制約を理解することで、よりよい政策について一緒に考えよう、という内容だった。

 私のプレゼンテーションが終わり、グループに分かれて、参加者で「理想の医療の未来像」について議論をすることになった。私も、グループの一つに入って一緒に議論した。理想の医療について、みんなどんなイメージを持っているのかな、と期待していると、意外なことに、現状への不満や改善すべき点についての意見、充実した医療は良いけれども財政制約があるから容易ではない、といった議論が大勢を占め、「こういう医療がいいよね」といった「理想の医療の未来像」についての議論は、あまり出なかったのだ。もっともこれは、私が直前にした講演の内容に、影響を受けたせいもあるかもしれない。 

  議論を聞いていて、私はハッとした。「これでは人は説得できない」と。(つづく)

※最近忙しくてここまでしか書けませんでした。もったいぶっているわけではありません。すいません。