ビジョンとは何か②

 これまでのあらすじ
  「ビジョンとは何か」を考えていた僕。いろいろな本を読んでも、どうもしっくりこない。そんなとき、友人の主催する勉強会で、「政策の制約と限界」について講演をする機会に恵まれる。講演のあと、グループディスカッションに参加した僕は、「ビジョンとは何か」について閃くが・・・

 というわけで、前回の続き。
  グループの議論では、「理想の医療の未来像」という議題にもかかわらず、現実的な議論が多かった。「お金が無尽蔵にあればいいが、実際には国の財政も非常に厳しいので、多少は我慢しないと仕方がない」、「子どもの医療費の自己負担がゼロになっているから、無駄に病院に行くのではないか」、といった議論だ。そして、私もかねてから問題意識を持っていた終末期医療についても、「スパゲティ症候群のようになってまで延命治療をするのは、本人の意思にも反するし、医療費もかかるので、やめるべきではないか」、といった議論になった。

 私はその議論を聞いていて、「(国の)お金がないのだから、延命治療はやめるべきだ」というロジックでは、到底、当事者を納得させることはできないだろうと思った。たとえ、一般論としてはそのような理屈が正当だとしても、実際に延命治療を受けている本人や、その家族にしてみれば、全く受け入れがたい説明だと思う。
 もっとも、このような議論になったのは、その直前にした私の講演が、「政策の制約と限界」というタイトルにもあるように、財政制約や、民主主義のプロセスから来る制約、少子高齢化による制約など、政策にも制約があるということをさんざん説明したためである。私は、政策にも制約があるので、ただ批判するだけでなく、その制約を踏まえた上で、我々がなすべきことについて前向きに考えよう、というメッセージを伝えたかったのだが、制約について説明した本人が、制約では当事者を納得させられないということに気づいたのは、まさに逆説的というほかない。

  なぜ制約では人を納得させることができないのか。それは、まさに、「ビジョン」がないからだと思う。「お金がないからできない」、「時間がないからできない」という説明は、「本当はこうしたいんだけど、制約があるので、こうせざるを得ない」という意味で、本質的に、「仕方がない」という諦めを含んでいると思う。だからこそ、一般論としてはともかく、当事者になったら納得できないのだ。そして、国が制約から政策を語るとき、そこにはどうしても、一種の“強制感”がつきまとう。当事者からしてみれば、本当は嫌だけど諦めさせられる、という気持ちがするかもしれない。

 ではどういう説明なら納得するのか。そのときに「ビジョン」が大切なのだと思う。私は、以前、「イクメンプロジェクト」に携わったが、なぜ、「イクメンプロジェクト」はうまくいったのか。それは、一言でいえば、制約からではなく、ビジョンから政策を語ったからであると思う。
  「イクメンプロジェクト」は、男性ももっと育児をしよう、という呼びかけを行うプロジェクトだったが、その背景としては、男性も育児をしたいという思いがあるのに、それが実現していない、という現状があった。そして、なぜ男性の思いが実現しないのかといえば、「男性が育児をするなんて」という社会の風潮があり、男性自身も自分が育児をしているということを積極的に言い出しにくい雰囲気があった。そこで、「イクメンプロジェクト」では、世の中の男性は子育てをしたいと思っていますよ、それは素晴らしいことですよ、だから社会で男性の子育てを応援しましょう、というメッセージを打ち出した。つまり、男性の意識の変化を背景に、「男性も子育てができるようになったらいいよね」という「ビジョン」で政策を語ったのだ。
  これが、「出生率が下がるから男性も子育てをしましょう」とか、「女性が出産後も働けるように男性も子育てをしましょう」といった「制約」からのアプローチでは、うまくいかなかったと思う。「子育て」は本質的にプライベートな行為であり、「イクメンプロジェクト」はそれを国が推奨するという難しさがある。そのことが、国による“強制感”を出さないようにという配慮につながり、「ビジョン」による呼びかけという結果になった面もあるかもしれない。

 そう考えると、例えば、先に挙げた延命治療の例でいけば、「医療費がかかるから終末期医療を見直しましょう」ではなく、「最後は自宅で家族に見守られて死にたいよね」とか、「痛いのは嫌だよね」といった、「〜したい」というビジョンからアプローチすることが重要だと思う。
  同様に、今、国会で議論されている「社会保障と税の一体改革」。「社会保障を持続可能なものとするために、増税をお願いする」というスタンスよりは、ビジョンを語りたいところだが、金がないから増税するというシンプルな構造の中で、果たして増税のビジョンはあるのか。以前、このブログでも書いたように、給付を改善するどころか、給付を維持するだけでも、大幅な負担増が必要というのが現状である。制約からし増税を語らざるを得ないというところに、増税の難しさがあるのかもしれない。

(参考)
「負担増に見合った給付」:
http://d.hatena.ne.jp/sadaosan/20111211/1323601473