不思議な感慨

 ジョギングを走り出すと、わずか5キロの距離でも、先の道のりを考えて、まだこんなにあるのか、といつもうんざりする。でも、そんなことを考えつつ走っていくうちに、いつの間にか半分が過ぎ、気づけばゴールまであと少し、というところまで来ている。どんなに遅くても、前に進んでいれば、いつかは必ずゴールできる。仕事も人生も同じだなあと、ジョギングをすると毎度のことのようにそんなことを考える。

 先日、別府−大分間を走る「別大マラソン」があった。ちょうど、家の前の道路がコースになっていたので、沿道から声援を送った。そこはスタートから40キロくらいの地点で、ゴールまであと少しというところ。苦しそうに顔をゆがめる選手、飄々と走っていく選手、体を少し傾けながら走っていく選手・・・それぞれスタイルは違うけれど、皆一様に、最後の力を振り絞り、ゴールを目指して走っていく。

 別大マラソンの参加者は約3000人。トップが通過してから、最後のランナーが通過するまで、およそ1時間半かかる。だから、トップが通過してしばらくすると、沿道で応援する人もだんだん減ってくる。私も、トップの選手を見送ってしばらくしたら、家に帰ろうと思っていた。ところが、東京から知り合いの先輩が出場しているのを知り、せめて、その先輩に声をかけてから帰ろうと思い直し、しばらく応援を続けることにした。

 目の前を、次々とランナーが走り抜けていく。先輩を見逃すまいと、ゼッケンばかり見ていた私は、不意に、不思議な感慨にとらわれた。なぜ、この人たちは、こんなにも一生懸命に走るのだろう。それぞれに忙しい仕事を抱え、わざわざ東京から飛行機に乗ってやってきて、明日からは、また仕事に戻っていく。そこまでしてなぜ走るのか。そんな疑問を感じているうちにも、続々とランナーがやってくる。見れば、そのランナーの列は、はるか後方まで、途切れることなく続いている。ここまでの距離は40キロ。ということは、ここを通過するすべてのランナーは、既に40キロを走ってきているということだ。何という圧倒的な光景であることか。

 自分で走れば5キロでもうんざりするのに、42キロも走ろうというのは、一体どんな気持ちなのだろう。フルマラソンを走るランナーでも、走り始めは、やはり先の道のりを思ってうんざりするのだろうか。そう思って見れば、トップの選手はともかく、後半の選手のペースは、思ったほど速くはない。むしろ、こんなペースで一体何時間かかるのだろう、というスローペースである。それでも、前に進んでいる限り、いつかはゴールする。そう信じて走り続けたからこそ、現に40キロ地点まで到達しているのだ。42キロを走りきる体力ももちろんすごいが、それ以上に、地道に走り続ける精神力がすごいと思う。

 その日の夜、いつものジョギングを始めた私は、はじめて、コースを2周したのだった。

自律性

 最近、自律性についてよく考える。きっかけは、デシの「人を伸ばす力−内発と自律のすすめ」という本を読んだことだ。県庁に赴任して管理職になったことや、3歳になる息子と過ごす時間が増えたことも、要因の一つかもしれない。

 自律性とは、他人から「させられる」のでなく、自らが主体的に選択していく、ということだと理解している。以前、このブログで、金銭などの報酬やペナルティによる動機付けが、自律性を損なう可能性がある、ということについて少し触れたことがある(http://d.hatena.ne.jp/sadaosan/20120610/1339299591)が、自律性は、何かをすることの動機、つまりモチベーション(やる気)に関わっている。逆に言えば、他人に何かをしてもらいたいとき、どうやったら効果的にしてもらうことができるか、その鍵が自律性である。

 そのことを示すエピソードを2つ紹介したい。
 3歳になる私の息子は、歯みがきが大嫌いで、夜寝る前に歯みがきをするのに、毎晩大騒動だった。歯みがきは絶対にしないといけないんだよ、しないと歯に虫が来るよ、お姉ちゃんもきちんとやってるよ、といくら諭しても、「ヤダ」の一点張りで逃げ回る。それを押さえつけて無理矢理ハブラシをするのは一苦労だった。
 あるとき、私は息子を押さえつけながら聞いてみた。「お母さんが歯みがきするのと、お父さんが歯みがきするのと、どっちがいい?」息子の答えは、「ママがいい。」そこで、妻にバトンタッチしたところ、意外にスムーズに歯みがきができた。子どもに選択肢を与え、どちらに磨いてもらうか自分で選択させる(=自律性)ことで、歯みがきへの心理的抵抗が抑えられたと考えられる。
 これは良い方法だと思って毎回繰り返していると、一週間もしないうちに、「お父さんとお母さんのどっちがいい?」と聞くと、「どっちもヤダ」と答えるようになった(笑)。選択肢がおかしいということに気づいたのかもしれない(しばらくしてから気づくのがかわいいところだ。)。
困ったなと思って次の方法を探していると、博多に旅行した際、息子の大好きな新幹線が柄になっている歯ブラシがあった。それが欲しいというので買ったところ、毎日の歯みがきをすんなりとさせてくれるようになった。これは、息子が自分で歯ブラシを探し出して買ったことで、歯みがきに対する主体的な意識が芽生えたのではないかと思う。もし、私から「この歯ブラシで歯みがきしない?」と聞いていたら、こうはならなかったかもしれない。歯ブラシを取り替えるだけで、こんなにも違うのかとあきれたが、この辺が子育ての面白いところでもある。
 次のエピソードは、ある里親さんから伺ったものだ。この里親さんは、里子として預かっている子どもが、学校に行きたがらずに困っていた。里親さんとしては、一日おきとか、午前中だけとかでもよいから、何とか少しでも学校に行ってほしいと思っていたが、本人がなかなかその気にならない。そこで一計を講じて、「学校に行ったらサービス券を一枚もらえる。サービス券が5枚たまったら、学校を1日休める」というルールを作ったところ、うまく学校に行くようになったという。学校に行ったら(いわば)不登校券がもらえる、というのは、何とも逆説的なルールで、よくこんな発想が浮かぶものだと感心したが、それはともかくこうしたルールにすることで、これまでうるさく言われていやいや登校していたのが、本人が主体的に自分の意志で学校に行く、という意識に変わったのだろう。

 本人の自律性が、何かをしようという動機付けに強く関係しているという事例は、実は身近にたくさんある。「宿題をやりなさい」と言われたとたんに宿題をする気がなくなる、というのは、誰しも経験があるだろう。自分が考えた事業ならいくらでも頑張れるが、人から引き継いだ仕事はやる気がしない、ということもよくある。起業した人が活き活きと働いている(ように見える)のは、自律性と大いに関連しているだろう。

 こう考えていくと、自律性の問題は、他人との関係だけでなく、自分自身の問題でもあることに気づく。毎日を、自律的に過ごしているかどうかを意識することで、少しでも前向きに、楽しく生きていくことができるのではないか。同じ仕事をするにしても、それを「やらされ仕事」と感じるか、それとも「自分の仕事」と感じるかによって、やる気や仕事の喜びはまったく違ってくる。「面白き こともなき世を 面白く」とは高杉晋作の辞世の句とされているが、これも、心の持ち方一つで、世界が変わって見えるということを表しているのではないかと思う。

メンドクサイ病

 「面倒くさい」は役人の大敵だ。ふとした隙に心に入り込んでくる風邪のようなものだが、放っておくと重篤化して、死に至る病になる。

 行政は、「事なかれ主義」、「減点主義」などと言われる。確かに行政には、何か新しいことをして非難されたり、仕事を増やしたりするよりは、何もしないで済めばその方が良い、と考える傾向がある。これは、個人の問題というよりも、お客さんが来なくてもつぶれないという、公務員が持つ本質から来る構造的な問題だ。実際、批判されるリスクを冒しつつ何かを苦労して始めるより、やらない理屈を考える方がはるかに容易だ。いや、批判されるのが怖いといいながら、つまるところ単に面倒なだけということも多い。むしろ、面倒くさいというのを隠すために、やらない理屈を考える。私はそれが一番嫌いだ。面倒くさいからやりたくないだけなのに、もっともらしい理屈をつけて、やりませんと胸を張ってくる。仕事が増えるのが嫌なら、そう言って断る方がまだましだ。おそらく、言っている本人もそのすりかえに気づいていないに違いない。

 行き過ぎた規制のように、行政が何かをすることで生ずる害もあるが、何かをしないことによって生ずる害の方が、よほど罪が重いと思う。行政仕分けなどと言って、いまやっていることに税金の無駄使いがないかどうか吟味することも大切だが、本当は、やるべきなのにやっていないことのほうが問題だ。しかし、それを検証することは大変難しい。なぜなら、それは多くの場合まだ顕在化していない問題であり、それを知っているのは限られた人々だけであり、そしてそういった隠れた問題は、一般に考えられているよりずっと多いからだ。

 役人は、それぞれの分野の専門家であり、そうした隠れた問題を知りうる立場にいることを自覚しなければならない。隠れた問題に気づいたとき、仕事が増えて面倒だからとそれを隠すのではなく、むしろその問題に対する世の中の関心が高まるようにしていかなければならない。世間が注目すれば、それだけ自分の仕事が増え、批判されるリスクも高まるが、一方で世間の関心が低ければ、数ある問題の中で、優先して解決すべきものとはならない。

 「面倒くさい」と思わないためにはどうすればよいか。一つは、使命感を持つことだ。自分が目をつむってしまえば、自分は楽かもしれないが、それで救われない人がいる。支援を受ける人の身になって、想像力を働かせること。青臭いようだが、これが一番の基本だろう。そして、仕事を楽しむこと。やらされていると思うからつまらなくなる。自分が主体的に動くことで、周囲の状況が変わっていくのを楽しむ。批判されることを含めて、楽しいと思えるようになれば理想的だ。最後に、心にゆとりを持つこと。余裕がなくなると、仕事が増えることに拒否的になる。今やっている仕事で手一杯なのに、これ以上、新しい仕事を引き受ける余裕はない、という気持ちになる。とはいえ、仕事は増え、人は減る一方だ。その意味では、現実的にはこれが一番難しいかもしれない。

ソーシャル・キャピタル

 先日、祖父の13回忌があり、久しぶりに親族で集まる機会があった。祖父・祖母には子ども(私の母の代)が3人おり、さらにそこから3人ほどの子ども(私の代)が産まれ、さらにそこから子ども(私の子の代)が産まれている。それぞれの配偶者を含めれば、20人を超える人数になる。当日は、都合が悪く欠席者も何人かいたが、それでも全部で17人が集まり、お坊さんも「ずいぶん多いですねえ」と驚いていた。

 母方の親戚は、私が子どもの頃から仲が良く、いとことも幼い頃から旅行に行ったりして遊んでいた。さすがに最近では会うことは少なくなったが、こうした法事で集まると、今でも思い出話に花が咲く。当時は子どもだった兄弟やいとこたちも、今ではそれぞれのフィールドで立派に活動している。普段はやりとりしていなくても、いざというときには頼りにできる存在が身近にたくさんいることは、やはりとても心強いものだ。

 ソーシャル・キャピタルとは、人と人とのつながり、信頼といった価値を「資本(キャピタル)」として表した概念だが、その最も基本的な単位は、家族や親戚といった身近な人とのつながりだろう。「真の贅沢とは人間関係の贅沢だ」とは、「星の王子様」を書いたサン=テグジュペリの言葉だが、年を取るほど、人間関係がいかに大切かということが身にしみて分かってくる。その点では、上に書いたように、幼少期から良い家族関係を築くことができた私の環境は、非常に恵まれていたと思う。

 こんなことを考えるようになったのは、仕事で、大変な家庭をたくさん見るようになったからだと思う。子どもに暴力をふるう親やネグレクトする親のみならず、DV家庭、ひとり親家庭、親子ともに精神疾患を抱える家庭、あるいは人付き合いが苦手な親など、周囲に助けを求められず孤独に子育ての悩みを抱え込んでいる家庭の何と多いことか。家族は、人間関係の最も基本的なモデルである。家庭環境が落ち着かず、親や兄弟と人間関係を築くことができないと、他者との人間関係をどうやって築いていくのかが分からなくなる。それは、その後の人生において大きく不利になることを意味する。

 大切なことは、どのような家庭に生まれるかは、まったくの偶然であり、本人に責任はないということだ。人付き合いがうまい人は、周囲に気を遣ったり、我慢したりと、それなりに努力をしているのは確かだが、そういった努力ができるという基盤は、本人に責任のない、家庭環境の中で育まれるものだろう。健全なコミュニケーション能力を持つためには、本人の努力だけではいかんともしがたいという家庭が、残念ながら一定程度存在するのだ。

 だからこそ、こうした家庭に育った子どもに対しては、社会は、十分に支援をしなければならないと思う。繰り返しになるが、どのような家庭に生まれるかは全くの偶然であり、本人に責任はない。それにもかかわらず、生まれついた家庭の状況によって、本人のその後の人生は大きな影響を受ける。だから、少なくとも、生まれついた家庭の状況を理由とするハンデが解消され、どのような家庭に生まれても、同じスタートラインに立てるようなレベルの支援が必要であると思う。どのくらいのレベルの支援が必要と考えるかは、人によって異なるだろうが、それを考える上で、参考になる一つの思考実験がある。想像してみてほしい。もし、自分が恵まれない家庭に生まれるとしたら、どういう社会であってほしいかを。そう考えてみることで、どの程度の支援がフェアであるのか、その人なりの判断基準が示される。

 残念ながら、現状は、どのような家庭に生まれても、同じスタートラインに立てるような水準の支援がなされているとは、到底言えない状況だ。その原因の一つは、現在の民主主義のシステムの中では、代弁者がいないこうした子どもたちの声が、なかなか届きにくいことにある。少子化の深刻さが理解されはじめて、ようやく最近になって、子育て支援の充実の機運が高まってきたようにも感じるが、保育所の充実や働く母親の支援など、一般的な対策がやっとであり、こうした恵まれない立場にいる子どもたちへの支援は、まだまだ光が当たっていない。行政として、こうした子どもたちへの支援をしっかり行うのはもちろんだが、社会の後押しがなければ、大きな力にはならない。厳しい状況にある子どもたちの現状を伝え、社会の理解を得られるように努めることも、プロとしての責務だと思っている。

決められない政治

 いよいよ衆議院が解散され、来月には総選挙を迎える。選挙になると、政治に関する報道も多くなるが、最近読んだ「ヒーローを待っていても世界は変わらない」(湯浅誠著、朝日新聞出版)に大きな刺激を受けた。既にフェイスブックなどでは話題になっているが、とても分かりやすくて面白い本だと思う。特に政治や民主主義に興味がある方にはぜひ一読をおすすめしたい。

 この本の中で、私がもっとも気になった部分の一つ(この日本語訳は昔から変だと思う)が、「政治不信の質的な変化」に関する湯浅氏の主張だ。氏は、「橋下現象」を例にとって、国民の政治に対する不信が、政治家個人や政党、政策から、「政治システム」に対する不信へと変化している、と主張している。すなわち、橋下市長の主張は、大阪都構想や、道州制、首相公選制、参議院廃止など、統治機構に関するものが多いが、それが一定の支持を得ているのは、国民の批判が、政治家個人や政策の内容でなく、民主主義という政治システムそれ自体に向いているからではないか、というのである。

 それを裏付けるようなデータが、平成24年版の厚生労働白書にある。次のデータは、OECD各国の政治制度や公的機関への信頼度を尋ねたものである。

(出典:厚生労働省編「平成24年版厚生労働白書」pp.122)

 これを見ると、日本では、(全体的に信頼度が低いということはあるとして、)議会と政府とに対する信頼度を比べると、議会への信頼度の方が、政府に対する信頼度よりも低くなっている。これは端的に言って、上に示したような、国民の「政治システム」そのものに対する不信のあらわれであると思う。他の国のうち、こうした傾向を示しているのは韓国であるが、そのほかの国々では、おおむね、議会の方が政府よりも信頼されている(余談になるが、アメリカが意外に議会と政府の信頼度が変わらない点や、韓国の差が大きい点など、なかなか興味深い調査である。)。役人としては、五十歩百歩とはいえ議会よりも政府が信頼されていることを嬉しく思わないでもないが、政治システムへの不信は、統治の正当性に対する疑義であり、より深刻であるとも言える。

 政治に対する批判として、最近マスコミなどでよく耳にするのが、「決められない政治」というフレーズである。湯浅氏も著書で言及しているが、この「決められない政治」というフレーズは、少数意見を尊重し、ぎりぎりまで議論をするという民主主義の根幹を揺るがしかねないものだと思う。国の政策は、強制的に徴収される税金を原資とし、一律に適用することが原則だ。したがって、反対する人たちに対しても、いったん政策が決まってしまえば、強制的に適用することになる。だからこそ、政策を決める上では、少数意見を尊重し、反対する人の意見にも耳を傾けることが必要なのだ。それなのに、「決められない政治」という批判には、「中身は何であれ、決められないことが問題だ」という含意があり、こうした丁寧なプロセスをすっ飛ばして、とにかく決めることが良いことだ、という乱暴な主張につながりかねないのではないか。

 さらに気になるのは、「決められない政治」というフレーズには、「決めるのは政治(家)であって自分ではない」というどこか他人行儀な響きがあることである。確かに、法律の議決は国会が行うことであるが、だからといって政治は政治家だけがするものではない。それどころか、市民レベルでの討議の積み重ねこそが、質の高い民主主義のためには不可欠なのであって、そうした議論を避けて、自分に都合の良い決定だけを政治家に求めるのでは、民主主義という仕組み自体が成り立たなくなってくるのではないかと思う。

 大きな期待を背負って政権交代を成し遂げた民主党が、結果的にマニフェストを達成できなかったことで、政治システムに対する不信が広がった。その意味で民主党の罪は大きいが、ずっと野党であった民主党が、きちんとしたマニフェストを作るのは難しかったという面もあるだろう。その意味で、次の選挙は、与党経験のある党同士が、実現可能な政策で競い合うという、本当の意味での政権選択の選挙になりうる。ここでまた突拍子もない公約を掲げる政党が躍進して、結局実現できずに失望感が広がる、ということがないと良いのだが。。。

仕事ができる人

 先日、あるインド料理屋に行ったときのこと。
 私「「本日のカレー」は何ですか?」
 店員「えーと、何だったっけな・・・確か、ほうれん草のカレーだったか・・・」
 私「(「本日のカレー」の中身くらい覚えておけよと思いつつ)まあいいです、じゃ、「本日のカレー」でお願いします。」
 店員「分かりました。」
 そして10分後、店員が持ってきた「本日のカレー」は、見事にジャガイモとひき肉のカレーで、ほうれん草はひとかけらも入っていなかった。
私は、いずれにしても「本日のカレー」を頼むつもりだったので、店員に文句を言ったりはしなかったが、これはさすがにどうかと思った。確かに、こちらもきちんと確認をしないで「本日のカレー」を注文しているので、店員も「この人は何にしても「本日のカレー」だな」と思ったのかもしれないが、「ほうれん草のカレー」という店員の記憶が間違っていたのだから、「ほうれん草のカレーではなくてジャガイモとひき肉のカレーでした」くらいは事前に言いに来てしかるべきではないか。

 もう一つ、知事のお宅に招かれて食事会をしたときのこと。
 緊張しながらも楽しかった食事会が終わり、私を含めた若い人たちが何人か残って片付けをしていた。その片付けも終わって、帰ろうとしたとき、ふと、ジャンパーが置いてあるのが目に入った。そのジャンパーは、庭でバーベキューをしていた際、知事が参加者の一人に貸していたもので、その参加者が先に帰ったため、部屋の片隅に置いてあったものだった。私がそのまま通り過ぎて帰ろうとすると、一人の後輩が、そのジャンパーを手に取って、丁寧にたたみ始めた。酔って良い気分になっているにもかかわらず、こうした細かいところに気が回るとは、なかなかやるなと思った。

 私が本省にいた頃に、秘書官としてお仕えしていたK先生は、省内の廊下やエレベーターの中で、紙くずなどのちょっとしたゴミを見つけると、いつも黙ってそれを拾い上げ、自分のポケットにしまっていた。きれいな職場で、みんなに気持ちよく働いてもらいたいという気持ちのあらわれだろう。とはいえ、誰が捨てたか分からないゴミを、平然と自分のポケットに入れるというのはなかなかできることではない。組織のトップがこうした行動を示すことは、「職場をきれいにしよう」と百回唱えるよりよっぽど効果があると思う。私は、先生がゴミを拾っているのを見るたびに、「この人は何と謙虚な人なんだろう」と感じ入っていた。

 仕事ができる、できないというのは、ちょっとした気が利くかどうか、ということが実は大きいのではないか、と最近感じている。もちろん、ベースラインとして、仕事に対する意欲や能力があることは前提だが、ある一定のレベル以上になれば、そこで顕著な差が付くことは少ないのではないか。他人へのちょっとした気遣いが、職場のコミュニケーションを良くしたり、「あの人が言うなら仕方ないか」という雰囲気につながったりして、結果としても大きな差が出てくるということもあるだろう。その意味では、「ちょっとした気遣い」も、仕事に対する謙虚な姿勢のあらわれであり、意欲や能力の一部であるとも言えるかもしれない。

去年と一緒です

 早いもので社会人になってから13年を数えるようになり、資料の原案を作る立場から、最近では出来上がった資料をチェックすることが多くなった。はじめて係長になり、「係員が作成した文書に手を入れるのって新鮮だよね−」などとのんきに同期で話していたことが懐かしい。

 原案を作成する立場でいた頃は、「どうしてこんな細かいところまで修正するのだろう」とか、案文を前に何やら考え込んでいる上司を見て、「この人はいったい何を考えているのだろうか。修正するなり了解するなり、さっさと判断してくれぇ」と心の中で叫んでいたものだが、いざ逆の立場になってみると、何となく自分のイメージに合わない資料が出てくるたびに、「今さら一から作り直させるのも悪いしなあ」とか「こんなんだったら自分で作った方が早かった」などと余計なことを考えて、案文の前で固まっている自分がいたりする。

 私がはじめて係長らしい仕事をしたのは、雇用保険の担当をした5年目のときだが、資料をチェックしていて、いつも気になったのが、読み手の立場に立っていない文章だ。例えば、専門用語の羅列。あるいは、○○△△□□事業というやたら名前が長いくせにその内容が分からない事業名を説明なしで使うこと。特に、雇用保険ではさまざまな予算事業を実施していたので、この事業名のオンパレードには閉口した。その文書を書いている担当者にとってみれば、事業の内容が分かっていて当然かもしれないが、その文書を読む側にとってみれば、何の説明もなしにいきなり事業名が書いてあったとしても、どういった内容なのか、さっぱり分からない。もっとも、こうした背景には、本来「○○△△□□事業」ではなくて、「〜を実施する」とか「〜を行う」とか、内容を書き下さなければならないところ、一方で「○○△△□□事業」には複数の内容が含まれているために一言で書き下せない、という事情もあったりする。

 そして、何よりも一番ゲンナリするのが、「去年と一緒です」というパターンだ。去年と一緒であることが問題だ、と言っているのではない。継続性ということを考えれば、むしろ去年と一緒の方が良いということも多い。そうではなくて、私が言いたいのは、「ここはなぜこのような書き方になっているのか?」、「去年と一緒です。」、「じゃあ去年はなぜこう書いたのか?」、「・・・さあ。。。」、というパターンだ。つまり、何も考えずに前例をコピーしている場合だ。

 役所は前例踏襲主義と言われる。前例は、上に述べたように継続性という観点からは重要だし、説明責任を果たすことが常に求められる行政にとって、「前回もそうやっています」というのは、一つの理由になるのも確かだ。なぜなら、一定の合理性が認められたからこそ、過去にそれが実施されたと考えられるからだ。しかし一方で、何も考えずに前例に従っていると、やがて感覚が麻痺し、なぜそうなっているのかを考えられなくなる。極端な話をしているようだが、長年行政にいると、無意識のうちにこうした傾向が体に染みついてしまう。民主党政権になって行われた「事業仕分け」では、役所の説明能力の甘さが批判されたが、そこで私が感じたことは、我々が当然と思っていることが、一般の目から見れば当たり前ではないということが、いかに多いかということだった。事業仕分けのやりとりを聞いていると、(その指摘がいかに荒唐無稽であるかどうかは別にして)「こんなことまで説明しないと分からないのか」という、前提となる認識のギャップの大きさに驚いた。れんほう大臣(当時)が、「なぜ2位ではいけないのか」と発言して物議をかもしていたが、これなどは、まさに「そこからですか」といった類の質問だと思う(個人的には、事業の必要性を徹底して遡って考えるという点で積極的に評価すべきではないかと感じる。)。

 「去年と一緒です」という説明には、無自覚のうちに前例を肯定するという発想がひそんでいる。繰り返しになるが、前例を踏まえることは決して悪いことではないし、むしろ歴史に学ぶという観点からは重要なことだ。ただ、それが体に染みついてしまうと、「なぜそれが必要なのか」を問うことを忘れてしまう。たまには立ち止まって、「なぜ世界第2位ではダメなのか」から考えることも必要かもしれない。