選択と自由

 夏は霞が関では異動の季節である。紙切れ一枚でどこへでも行かされるのが宮仕えの宿命。とはいえ、異動前ともなれば、何月何日が「Xデー」(異動日のこと)だとか、誰がどこへ行きそうだとか、さまざまな噂が流れ、今年の異動の対象になりそうな職員は、次はどこに行くのだろうと気もそぞろである。
 どこへ行きたいかという希望は一応聞かれるけれど、希望通りの部署に行けることはなかなか少ないのが現実。働く部署を選択する自由は労働者にはなく、職場の都合で決まっていくというのは霞が関に限らないルールだろう。実際に、希望のところに行けなかったとがっかりしている人もいるかもしれない。

 しかし、希望通りの部署に行けたからといって幸せになれるとは限らないし、全く望んでいなかった部署で貴重な経験をすることもある。いや、むしろ個人的には、後者の経験が多いような気がする。ワーク・ライフ・バランスの担当になったときも、異動の内示を受けたときは、こんな保守的な私に務まるのかと正直思ったし、そもそも厚生労働省の門を叩いたのだって、友人に影響を受けたためであって第一志望ではなかったのだ。

 誤解を恐れずに言えば、選択する自由が与えられているということは、一般的には良いことであると考えられているけれども、自分で選択ができずに、誰かに決めてもらったことが結果的に良かったということは、実際には結構あるような気がする。それは、おそらく選択肢の「質」が高いかどうか、言い換えれば、選択できるメニューがどれだけ良いものであるか、ということにかかっているのではないだろうか。つまり、選択する自由があるかどうか、ということより、どんな選択肢があるか、ということの方が重要であるということだ。例えば、子どもを産んで仕事を辞めるか、子どもを持たずに仕事を続けるかという選択の自由があります、と言われても、そこに子どもを持ちながら仕事を続ける、という選択肢がなければ意味がないわけだ。

 選択の自由がある、というと、何だかそれだけで良いことのように聞こえるし、自由に選択した結果がうまくいかなければ、自己責任であると見られがちだ。でもその前に、そもそもどんな選択肢があったのか、ということが問われなければならない。逆に言えば、選択肢をいかに増やしていけるかが、これからの政策に求められるものであると思う。