糸屋の娘

 京の五条の糸屋の娘
 姉は十八、妹(いもと)は十五
 諸国大名は刀で殺す
 糸屋の娘は目で殺す

  いきなり何のことかと思われた方もいるかもしれないが、上の句が何を表しているかお分かりだろうか。「糸屋の娘」というタイトルで中身が分かった人は、かなりの国語ツウである(と思う)。私は、高校生のときにこの句を習ったが、とても印象に残っていて、今でもよく覚えている。ネットで調べてみたところ、どうやら頼山陽のものらしい。

 勿体ぶったが、これは「起承転結」を表す句だ。「起」は導入部分で、「京の五条の糸屋の娘」、と始まる。これを受けて、「姉は十八、妹は十五」でこれが「承」。次に、「転」で「諸国大名は刀で殺す」。何のことかと思いきや、最後に「結」で「糸屋の娘は目で殺す」。なるほど。
  これは「転」の使い方がとても見事だ。自分で文章を書いていると、なかなかこうはいかない。普通の思考の流れと異なるからだ。AだからB、BだからC、、、と繋がって考えていくのが通常の思考回路で、そこで、流れを断ち切って「ところでD」と繋げていくためには、いったん考えを整理した上で、関連する別のトピックを拾ってこなければならない。

 ところで(笑)、先日子ども番組を見ていたら、「国語の必勝法」という内容を放送していた。いわく、国語では、「要するに」又は「結局」という単語の後のフレーズに注目すれば、それ以外は読まないでも大丈夫!というような内容だった。これでは、書き手がせっかく「転」の部分を苦心して考えても、何の意味もなくなってしまう。確かに、問題を解く上ではその通りかもしれないが、文章を読んでいると、結論の部分より、傍論の方が面白いこともあったりするので、そういった読み方を身につけてしまうのも、何だかもったいない気がする。

  情報の流れが早くなったせいか、ブログでもCMでも歌でも、最初に「結論」を持ってくるというスタイルが一般的になりつつあるようにも思う。それでも、たまに「転」をうまく使った文章を見ると、やはりチョット気の利いた感じがする。私のブログも、一応、起承転結を意識して書いているつもりだ(もっとも、最近は、肩の力を抜いているせいか、やや逸脱気味だが。)。実際、「転」の部分をいろいろと考えているうちに、自分でも気づかなかった事柄が繋がって、新たな気づきを得ることもある。もちろん、文章の種類や目的によって、かならずしも起承転結の構成にならないこともあるが、それを意識して文章を書いたり、読んでみたりするのも、面白いと思う。