手段が目的ランド

  「手段が目的ランド(SML)」とは、「大人たちが心ゆくまで手段を楽しむ夢の国」。そこでは、目的がなく生産性が微妙な行為ほど歓迎される。すべてのスポーツは、打ちっぱなし投げっぱなしの蹴りっぱなし。ルールはないし勝負もない。ずっとリフティングするもよし、イナバウアーばっかりやるもよし。
 ランドの周囲はぐるっと散歩できるようになっており、特にスタートもゴールもない。歩いたり走ったり、それ自体を楽しめるよう、美しい木々や花々が植えられている。
PCなどノマドっぽいことができるスペースはあるけれど、「〆切」は持ち込み禁止。excelやPPTをいじるのが好きな人は、ひたすらいじってもよい。ただし納品はできない。
  料理を作れるコーナーもあって、ずっと唐揚げに粉をつけていたい人と、唐揚げを揚げていたい人と、唐揚げを食べていたい人が絶妙な連携プレーを見せていたりする。
何をしたらいいか分からない大人のために、ランド内には「手段メンター」としてたくさんの猫がいる。彼らを見習って一日を過ごす。
 ―――少し長くなったが、以上は、kobeniさんという方のブログからの引用だ。このブログを読んでから、手段と目的についてずっと頭に引っかかっていた。いろいろ考えていくと、つながりが深くてまだうまく整理しきれていないが、今考えていることをちょっと書いてみたい。

  kobeniさんも書いているのだが、子どもの頃は、はさみでモノを切ったり、引き出しを出したり、あるいはティッシュを引き出したり、といった行為そのものを楽しんでやっている。ところが、いつからか、はさみでモノを切るのは工作をするため、引き出しを出すのは洋服を取り出すため、といったように、それが目的を達成するための手段になり、行為そのものから楽しさが失われる。同じように、ひらがなを覚えたり、絵を描いたり、といった行為も、最初は楽しくてやっていたのに、いつの間にかそれが宿題になり、楽しくなくなってしまう。なぜ、大人は子どものように、行為を純粋に楽しむことができなくなってしまうのか。

 1995年にエドワード・L・デシが書いた「人を伸ばす力」という本は、その理由を鮮やかに描いている。デシは、人間は、本来、学びたい、成長したいといった欲求を持っているが、成長するにつれて、抑制(叱られたり、罰を受けたりすること)や報酬(誉められたり、給料をもらったりすること)により自律性が失われ、その結果、本来持っていた成長に対する意欲を失ってしまう、と主張している。特に興味深いのは、外的な報酬が結果的にやる気を削いでしまう、という点だ。
  この本では、学生を二つのグループに分け、パズルを解かせるという実験を紹介している。解くパズルは一緒だが、一つのグループに対しては、パズルを解くことに対して金銭的な報酬が支払われる。一方、もう一つのグループに対しては、何も報酬はない。さて、ここで、実験終了後に、紙を取りに行くと言って実験者が中座し、被験者(学生)が一人部屋の中に取り残される。そのときに、学生が引き続きパズルに取り組むかどうか、それが実験のポイントである。つまり、実験終了後の手待ち時間に、学生がパズルに自発的に取り組むかどうかによって、学生のパズルに対する意欲を測ろうというわけである。
 実験の結果、パズルを解くことに対して金銭的報酬を支払われた学生は、実験終了後の手待ち時間に、パズルをすることはずっと少なかったという。つまり、金銭を与えられることによって、パズルをすることが、報酬を得るための「手段」となってしまい、本来のパズルを解く喜びが、減殺されてしまったというのだ。

 これは、なかなかショッキングな結果である。なぜなら、子どもに努力させようとして、親や教師がしている行為が、実は、子どものやる気を削いでいる可能性がある、ということを示しているからだ。例えば、親が、テストで100点を取ったらおもちゃを買ってあげる、と言うことは、テスト勉強をおもちゃを買ってもらうための「手段」に変えてしまい、子どもが勉強をする本来の喜びを奪っている可能性がある。あるいは、教師が、宿題をやってこなかった子どもを廊下に立たせることは、宿題をすることを、廊下に立たされるという「罰」から逃れるための「手段」と変えてしまい、叱られたくないから勉強をする、という意識を植え付けてしまうかもしれない。

  そしてこのことは、実は、子どもの教育の問題にとどまらない。大人の世界は、報酬やペナルティによる動機付けが、ありとあらゆるところでなされている。責任のある立場に就けば、常に成功のプレッシャーにさらされる。そんな状況の中で、仕事それ自体を「目的」にすることはとても難しい。もちろん、実際には仕事が「手段」か「目的」かは二者択一ではないだろうが、自分がこの仕事を「目的」として本当に楽しんでいるか、あるいは何か別の「目的」のための「手段」として仕事をしていないか。―――ミニカーを夢中で前後に動かして遊んでいる息子を見ていると、ふと、そんなことを考える。

※kobeniさんのブログ:http://d.hatena.ne.jp/kobeni_08/20120522/1337699448