順応仮説

  先日、幸福度研究に関する講演を聞く機会があり、大変興味深かった。幸福度に関する研究では、所得が増加しても人々の幸福度が上昇しないという有名な先行研究があり、これは「幸福のパラドックス」と言われている。その典型的な例は、高度経済成長期の日本で、この間一人当たり実質GDP が大幅に上昇したにもかかわらず、生活満足度はあまり変動していないという。「幸福のパラドックス」は日本以外に、アメリカ、東ドイツを除いたヨーロッパ諸国においても確認されているという。

 所得が増えても幸福度が上昇しないのでは、何のために経済成長するのかという議論になりかねないが、なぜ所得が増えても幸福度が変わらないのか。この問いに対して、一つの答えとして考えられているのが順応仮説だ。これは、所得が増えても、人々はその増えた水準に慣れてしまうので、長期的には幸福度が上昇しない、というものであり、最近の研究ではおおむね支持されているという。

  慣れだから、と言われてしまうと身も蓋もない感じだが、確かに、ヒトは慣れる動物であると思う。職場で異動があったりすると、初めは緊張して席に座っているだけでも居心地の悪さを感じるが、すぐに慣れて「自分の席」という気がしてくる。慣れとはヒトが新しい環境に順応するために必要な機能なのだろうと思う。講演でも、非常に厳しい状況に置かれても、やがてその状況に慣れれば、幸福度のレベルはあまり変わらないという興味深い話があった。例えば、重い病気や障害でほとんど体を動かせない人でも、幸福度を調査すると健常者とあまり変わりがなく、ちょっといいことがあると幸福度が上昇し、またしばらくすると元に戻るというのも健常者と同じであるという。側から見れば、寝たきりで何の楽しみもないだろうと思っていても、実は本人はその環境に慣れているので、ちょっとしたことでも喜びを感じられるというのは、自分がそうなったときのことを考えると、勇気の出る話だと思った。

 一方で、「初心忘るべからず」という格言があるように、慣れることで注意力が散漫になったり、保守的になったりするという側面もある。ミスというのは、だいたい慣れたころに起きる。駅員が毎回指差し確認をするのも、確認の手順にわざわざ指差しという行為を入れることで、注意力をその都度呼び起こしているのだろう。慣れとは便利である半面恐ろしいものだ。自分自身、原発事故が起こったときにはテレビの前に釘づけになったが、原発のニュースが毎日のように報道されると、やがて慣れてしまって少々放射能が漏れたくらいでは大して驚かなくなっていた。ヒトの順応力の凄まじさに改めて驚いたが、これなどは慣れてはいけない類のことがらだと思う。