煩悩

  今年も無事、大晦日を迎えた。残念ながら我が家からは聞こえないが、毎年、この日に突かれる除夜の鐘は、それにより煩悩を振り払い、身を清めて新年を迎えるという意味があるという。鐘を突くだけで煩悩が消え去るのであればこれほど楽なことはないが、昔の人も、それだけ煩悩に苦しめられてきたのだと思うと、今も昔も変わらないなあと一種のおかしみを感じる。

 私の好きな作家の一人である中島らもは、「何にも中毒していない人間はこの世にはいない」と喝破した。中毒といっても薬物ばかりでなく、アルコール、タバコはもちろん、ゲーム中毒や、ジョギング中毒なんてものもある。そして氏は、中毒することは馬鹿かもしれないが悲惨ではない、それは自らの選択であり、時間の河を生に向かって渡っていくことだ、と言う。
  煩悩は、苦しみの原因であると同時に、それを満たすことは快楽でもある。快楽の追求は生の一面であるが、それが苦悩の原因となるところに不条理がある。そう考えていくと、煩悩とは生そのものであると思う。もし、煩悩がすべて消え去ったら、その人の人生は幸せになるのだろうか。中島らもであれば、きっと、「つまらない」と一蹴するだろう。

 だが一方で、欲望の赴くままに行動していたら、やがて破綻することは間違いない。とりわけエリートにとって、自分の欲望をどうやってコントロールするかは非常に重要だと思う。薬物や女性問題などのスキャンダルが、命取りになると分かっていても古今東西絶えないのは、その人の意志が弱いのではなく、本能に抗うことがどれだけ難しいかということを示している。薬物によりもたらされる快楽や、食欲、性欲といった欲求は、それが本能的なものであるがゆえに、いったん充足してもまたすぐ欲しくなり、意志の力だけでは押さえることが難しい。まさに中毒である。あえて中毒したいと思わないのであれば、少なくとも、自分は意志が強いから大丈夫だ、などと思わない方が良いと思う。

  破滅的な生き方、というのは魅力的だが、臆病な私にはそんな生き方ができるわけもなく、阿佐田哲也中島らもの本を読んでカタルシスを得るのが精一杯だ。中島らものように、禁断の果実を食べて、それで苦しむのも人生だ、と開き直ることができればよいが、一度河を渡ってしまえばもう二度と戻ってこられないのではないか、という考えが先に立ってしまう。そうした生活に若干の憧れを抱きながらも、静かな喜びと感謝を感じつつ、今年もどうやら平穏に年が明けてゆく。