公務員バッシング

 先日、久しぶりに地元の病院の内科を受診した。小児科や耳鼻科にはよく子どもを連れて行くので、内科が混雑しているのはある程度予想していたが、実際に行ってみると予想以上にひどかった。朝一番で行ったのに既にロビーは高齢者でごった返しており、話がうまく伝わらないのか受付の列は全く進まない。待合室の椅子はほぼ満席で、何とも言えないもわっとした空気が充満している。いつ呼ばれるか分からないので近くで待っていると、1時間以上してようやく呼ばれたものの、3分程度で診療は終わり、また何週間後かに来て下さい、と言われた。二度といくもんか、と思った(事実行っていない。)。

  待つのは仕方ないとしてもせめて予約制にできないのか、とか、順番が来たら携帯を鳴らしてくれればいいのに、とか、いろいろと不満はあるが、一番私をイライラさせたのは病院のスタッフの態度だ。これだけ人を待たせているのだから、お待たせして申し訳ない、と感じているのかと思いきや、次から次へと患者がやってくるのに心底うんざりした様子で、むしろ自分たちも被害者だ、と言わんばかりの風情である。私はそれを見て、この人たちにサービスを良くすることを期待しても無駄だ、なぜならサービスを良くするインセンティブがまるでないのだから、と思い、何ともやるせない気持ちになった。

 その瞬間、公務員バッシングもこれと同じ構図ではないか、と思った。天下り問題から最近では公務員宿舎に至るまで、公務員への批判についてはいろいろと言いたいこともあるが、なぜ、そうした批判が出てくるのか。その根底には、公務員に競争原理が働かないことへの苛立ちがあるのだと思う。自分たちは、毎日、競争社会の中で必死に働いているのに、公務員には競争原理が働かない。競争原理が働かないから、コスト意識もないし、サービスを良くしようというインセンティブがそもそも働かない。
  つまり、サービスが少々悪いのはまあ我慢できるとしても、サービスを良くするインセンティブが、この人たちにはまるで働かないのだろうと感じてしまうことが、人々をげんなりさせているのではないかと思う。

 私は、かねてから、政府に効率性を求めることは、企業に公平性を求めるようなものだと思っている。それは必要なものではあるが、その組織の第一の行動原理ではないのだ。そこに批判の源泉があることが、生産的な議論を難しくしている。政策に対する批判であれば、議論を通じてより良いものが生まれてくる可能性もある。ところが、政策でなく公務員に対する批判の場合、それが政府に競争原理が働かないという本質的な理由に基づくために、根本的な解決は困難なのだ。批判の現れる先が天下りや公務員宿舎と形はさまざまに変わろうとも、公務員バッシングというのは今後も続いていくのだと思う。