エレベーターとリベラリズム

  少し前になるが、役所のエレベーターが新しくなった。6台のエレベーターが、地下1階から地上11階までの計12フロアを運行している。
このエレベーターには、最新の運行システムが搭載されているようで、ときどき不思議な動きをする。時間帯からすると空いているのに、ボタンを押していても通過したり、他のエレベーターとの同期を取っているのか、乗り込んでもしばらく動かなかったりする。そのときは一瞬イラッとするが、結局、目的の階に着くのは確実に早くなった。一体どんなプログラムを組んでいるのだろうと思う。

 ここで問題になるのは、何を最大化するか、ということだ。以前のエレベーターのように、ボタンを押されたフロアに一番近いエレベーターを、順次運行していくという仕組みは、ボタンを押してから、エレベーターに乗り込むまでの時間を最適化(この場合は最小化)する仕組みだ。ただ、エレベーターに乗る目的は、当然、早くエレベーターに乗り込むことではなく、早く目的階に着くことであるから、後者を最適化することが目的にかなう。ボタンを押してもエレベーターに通過されたりして一瞬いらいらしても、結局、目的のフロアに早く着くことができればその方が良いのだ。

  何を最大化するか、という問題は、実は、さまざまな事例にあてはまる。話が突然大きくなるが、例えば、国の政策は何を最大化すべきなのか。
 個別の政策ごとに異なる点はあるだろうが、究極的には、一人あたりGDPを最大化する、というのが一つの考え方だ。これは、「最大多数の最大幸福」という、ベンサム功利主義の考え方に近い。政府が成長戦略を掲げるのも、こうしたゴールを目指すものと理解できるだろう。
  最大化すべきものが国民一人あたりのGDPである、というのは、至極当たり前の結論のように思えるかもしれない。だが、話はそう簡単ではないと思う。なぜなら、この指標は、平等性、公平性といったものについて何ら直接の関係がないからだ。例えば100人の人がいて、1人が1億円稼ぎ、残り99人の収入がゼロ、という状態と、100人の人がそれぞれ100万円ずつ稼ぐ、という状態は、一人あたりGDPでみれば同じだ。そのどちらが望ましいかは、一人あたりGDPという指標では評価できない。
 違う考え方として、以前、このブログでも紹介(「社会保障の道徳的基礎」参照)したが、ロールズに代表されるリベラリズムの考え方がある。ロールズは、経済的不平等は、最も不利な状況にある人々の利益になるようなものでなければならない、と主張した。これは、不平等を認めない、という意味ではなく、恵まれない人の利益になるような格差を容認する、ということだ。例えば、不平等を解消するために、所得の高い人に稼いだ分だけ税金を納めることにしたならば、誰も高い所得を得ようとは思わなくなり、結果としてそれは最も不利な状況にある人々の利益にはならない。だから、この立場に立っても、経済成長は必要なのだ。ただ、先ほどの「一人あたりGDPの最大化」と違うのは、経済成長を何のためにするのか、という点だ。「一人あたりGDPの最大化」が、経済成長それ自体を目的としているのに対し、ロールズ的なリベラリズムは、経済成長の目的は、もっとも不利な状況にある人々の立場を改善するためだ、と考える。

  以前、菅総理は、「最小不幸社会」という主張をしていた。これはかなりロールズの主張に近いが、このスローガンは評判が悪く、あまり浸透しなかった。「最小不幸社会」という言い方が、何か小さくなっていくという印象を与え、あまり夢がない言い方だったのかもしれない。だが、このスローガンは、「何のために経済成長するか」という点では明確なメッセージを出しており、個人的にはもっと評価されても良かったのではないかと思っている。
 今は景気も悪いので、「素早い景気対策を」、「もっと経済成長を」という声が高まるのももっともであるが、では、経済成長の先に何があるのか、何のために経済成長するのか、という議論はあまりされていないように感じる。その議論が、本当は大切なのではないかと思う。

 (注)「最小不幸社会」というフレーズは、菅氏が党代表を務めていた2003年の民主党マニフェストに出てくる。改めて読み返してみると、「不幸」の原因を「権力」の力で取り除く、とは書いてあるが、経済成長の目的として最小不幸社会を掲げているわけではない。それでも、なかなか共感できることが書いてあると思うので、興味のある方は一度ご覧いただきたい。
  民主党マニフェスト2003:http://archive.dpj.or.jp/policy/manifesto/images/Manifesto_2003.pdf