すべからく醒めつつ淫すべし

 「すべからく醒めつつ淫すべし」という言葉がある。大学受験のときに習った言葉だ。ところが、その意味が分からない。意味が分からないのに、不思議と言葉だけは覚えている。今、ネットで調べてみても、過去の東大の入試問題でその言葉を含む文章が出ていたようだが、それ以上分からない。実は、以前にも気になって調べたことがあり、そのときは誰かのブログにヒットしたので、思い切ってその人に、自分の解釈が正しいかメールしてみたことがあった。確か、兵庫県の高校の先生だったと思う。その回答も、今でははっきりとは覚えていないのだが、自分の解釈もそんなに間違っていないと感じたことは覚えている。しかし、そのメールは古いPCがクラッシュしたときに消えてしまった。

  前置きが長くなったが、私の解釈はこうだ。「醒める」とは、「覚醒」の「醒」で、「酔いが醒める」の「醒」、つまり、意識がはっきりしている、自覚的である、ということだろう。そして、「淫す」の「淫」は、「ふける」とか「ひたる」といった意味で、「淫す」とは「度が過ぎて悪くなる」という意味だ。したがって、「醒めつつ淫すべし」とは、「自覚的に度が過ぎよ」、反対に言うと、「度を超すのであれば自覚的であれ」、「無意識のうちにふけることなかれ」、ということで、一言で言えば「確信犯であれ」ということだと思っている。

  「確信犯である」ということは、私にとって人生を生きていくうえでの大きなテーマの一つだ。良いことをするにしても、悪いことをするにしても、それらは自覚的になされなければならないと思っている。ときどきテレビニュースなどで、悪いことをして捕まった人が、「自分でも気づかないうちにこんなことをやっていた」と言う場面を見るが、私にとってそれは最悪だ。もとより、何が良いことで、何が悪いことかを決めるのは簡単ではないが、どっちにしても、自分で選んでそうならなければならない。
  ところが、現実には、捕まるところまでいかなくても、「状況に流される」ということはよくある。会社に入ればいつの間にか会社の文化に染まる。それが常に悪いとは言わないが、青雲の志を抱いて役所に入ったが、気づいたら銀行の人に接待されてノーパンしゃぶしゃぶに行っていた、ということが自分に起こらないとどうして言い切れるか。

  かつて、私が今の職場で働くことを決めたとき、ある友人は私にこう言った。「お前はこれから、ドロドロに汚れた川の中を、きれいな身で渡って行かなければいかんのや。」と。入省して10年余り、今の職場は彼が当時言っていたほど汚れてはいないと思うが、自分はまだきれいな身でいられているのだろうか。入省当時に持っていた志を、知らぬ間に失っていないだろうか。
  もし自分の身が汚れるのであれば、せめて自分の手で自分を汚したい。それを状況のせいにはしたくない。状況に流されるのであれば、せめて、自分が状況に流されているのだ、ということを自覚していたい。―――そう思って、これまで仕事をしてきた。