社会保障の道徳的基礎④

 これまで、社会保障の道徳的基礎について述べてきた。最後に、今、改めて道徳的基礎を考える必要性について触れた上で、若干の補足とまとめをしたい。

  従来、日本の福祉の大きな担い手は、「家族」と「企業」であった。
高度成長期において、地方から多くの若年労働者が都市部へと流入し、核家族を形成した。いわゆる専業主婦家庭が「モデル世帯」となり、夫は外で働き、妻は家を守るという家族のあり方が一般的となった。「24時間戦えますか」というCMが一世を風靡し、正社員は残業も厭わず働くかわりに、企業は終身雇用で社員を守った。
 こうした環境の中で、子育てや介護といった「ケアワーク」は女性の仕事とされ、家庭のおける福祉の多くは女性によって担われた。その反面、子育て期の女性の労働力率は先進諸外国と比較して低く、いわゆる「M字カーブ」といわれる現象がみられた。また、企業にとって社員は「家族」であり、不景気でも雇用を維持し、社員の生活を守ることが第一とされた。社員には家族を養う分の給料が支払われ、雇用のみならず、社宅や福利厚生施設などを持つ企業や、家族手当を支給する企業も多かった。

  我が国の社会保障も、これまで、こうした背景を前提として構築されてきた。すなわち、社会保険の適用は正社員を対象とし、非正規労働者は被扶養者という形で社会保険に加入することが想定された。つまり夫が正社員として社会保険に入り、妻と子は被扶養者として社会保険に加入するという構図である。非正規労働者の典型はいわゆる「主婦パート」、つまり家計補助的な働き方であり、家計の主たる担い手が非正規労働者であるという状況は例外的であった。専業主婦は、例えば国民年金の第三号被保険者にみられるように、直接の保険料の負担なく給付を受けることができる反面、「ケアワーク」は主婦が担うという前提のもと、保育所や老人ホームなどの整備は不十分であった。税制面においても、配偶者控除が結果として専業主婦家庭を後押しした。

 ところが、高度成長が終わって低成長期に入り、あわせてグローバル経済化により企業間競争が激化してくると、こうした状況が変化してきた。企業は終身雇用を保障できなくなり、社会保険に加入しない非正規労働者を多く雇うようになった。また、社宅や福利厚生施設は縮小された。労働者にとっても、家計の柱を一人に頼ることはリスクが大きくなるなかで、女性の社会進出とあいまって共働き世帯が急増した。
  こうした変化を社会保障の側から見ると、冒頭に記したように、従来の福祉の大きな担い手であった「家族」と「企業」が退潮し、その分を政府が担わざるを得なくなっている状況にある。「介護の社会化」、「子育ての社会化」といった言葉はそれを象徴している。高齢化の進展に伴って、社会保障の給付費は、今後増大していかざるを得ないが、機能的にも、社会保障がカバーすべき領域は大きくなっているのである。

 これまで、日本で社会保障の道徳的基礎についてあまり議論されることがなかったのは、国民の同質性が比較的高く社会連帯の意識が強かったこと、経済成長によりパイ自体が拡大する中で再分配への抵抗が少なかったこと、社会保障の運営主体である政府への信頼が高かったこと、などが要因として挙げられる。逆に言えば、社会保障の道徳的基礎といったことをあまり議論しなくても、負担について一定の理解が得られてきたと言えよう。ところが、こうした要因のいずれもが、現在変容しつつあることは既に述べたとおりである。最近、政府が税と社会保障の議論をアピールするのは、日本においても、なぜ社会保障が必要なのか、という問いに、真正面から向き合わざるを得なくなっているということの表れでもある。
  社会保障は、早くからその発展をみていた西欧諸国や、社会民主主義的な路線を取ってきた北欧諸国では、これまでさまざまな理論的分析がなされてきた。また、富をいかに分配するかは、正義の中心的命題の一つであり、他民族国家で「自由」を重んじる米国などを中心に、公平性や政府の関与について議論が蓄積されている。日本でも、こうした議論が高まりつつあるが、どちらかと言えば、どのような制度にするかという、機能的・技術的な面に議論が集中し、道徳的・理念的な面の議論が少ないように感じる。理念論は、ときに神学論争になってしまいあまり生産的でない場合もあるが、今後、社会保障の負担が増えていかざるを得ない局面にあって、避けて通れない議論であると思う。


※参考文献など
 社会保障の基礎を社会契約に置くとする考え方については、塩野谷祐一(2002)「経済と倫理−福祉国家の哲学−」、東京大学出版会、から大きな示唆を得ている。
 また、ベストセラーではあるが、マイケル・サンデル著、鬼澤忍訳(2010)「これからの「正義」の話をしよう」、早川書房、も参考にした。この本は、とても分かりやすいが、実は結構高度なことが書いてある。
 J・ロールズについては、J・ロールズ著、田中成明訳(1979)「公正としての正義」、木鐸社、を参考にした。