社会保障の道徳的基礎③

  前々回、前回と、これまで2回にわたって社会保障の道徳的基礎について考えてきた。社会保障の道徳的基礎を、ロールズ的な社会契約に置くことにより、社会保障の負担は単なる助け合いの精神から、社会契約上の義務として積極的に位置づけられることになる、ということを述べた。
 今回は、こうした考え方が社会保障の給付の意味に与える影響について、考えていきたい。

  社会保障にもいろいろあるが、まず生活保護を例に取って考えてみたい。
 生活保護は、国民の最低限度の生活を保障し、自立を助長するために、生活困窮者に対して国が給付を行う制度である。その特徴は、資産、能力、他の法律による援助などあらゆるものを活用してもなお足りない場合に給付が行われる(補足性の原則)ところにある。
  この補足性の原則ゆえに、生活保護は、「最後のセーフティネット」と呼ばれる。そして、生活保護を受給するためには、資産や扶養親族の有無などについて確認を受ける必要があるので、受給者は程度の差こそあれ誇りを傷つけられることになる。これをスティグマという。
 このスティグマが存在することが、生活保護を受けようとする者の心理的な障害となり、安易な受給を防いでいる反面、本当に受給すべき者が受給できなかったり、受給をしたとしても過剰なスティグマを受けたりする、といった弊害がある。社会保障が単なる助け合いの精神の表れであると考えれば、生活保護は、「自己責任」を全うできない落伍者が受ける施しなのだから、そういったスティグマがあって当然だ、という議論になりうるかもしれない。だが、生活保護も社会契約に根拠を持つと考えれば、たまたま能力の欠如等の理由によって給付を受ける立場となった者は、当初の契約に基づいて堂々と給付を受ければ良いのであって、本来、給付を受けることが正当な者が、卑屈にならなければ給付を受けられないということは、あってはならないのである。不正受給が許されないのは当然であるが、だからといって、自立して生きていくために行われる社会保障の給付を受けたことによって、逆に誇りを失わざるを得ないというのでは、本末転倒である。

  次に、国民年金について考える。
 国民年金は、給付費の半分を保険料で、残りの半分を国庫負担で賄うことが原則となっている(いろいろと経緯があり現実はそうなっていないが、ここではそれは措く。)。一方で、国民年金を全額税で賄う税方式が主張されている。国民年金の財源を、保険料と税に求める現行の方式と、全額税に求める方式とでは、何が違うのか。
  両者の相違についてはさまざまな議論があるが、その中で、保険料の拠出を求める場合には、それに見合った給付が確保されるから受給権が強く、全額税による場合には、そうした対応関係がないから受給権が弱い、という議論がある。これは本当だろうか。
 この考え方は、保険料は、給付と負担の関係があるので権利性が強く、したがって将来に備えて保険料を納付するという自助努力を促す仕組みであり、反対に、税は拠出と給付の関係性がないので、権利性に乏しい恩恵的なものである、という見方につながっている。だが、こうした見方は、現代民主主義国家においては、保険料だけでなく、税についても当然その使途は民主的なプロセスを経て決められるものである、という点を軽視しているのではないだろうか。確かに、税財源の給付は救貧を目的として始まったという歴史的経緯はある。しかし、社会保障ロールズ的な社会契約に根拠を持つと考えれば、税財源の給付であっても、一定の要件を満たす者について当初の社会契約に基づいて当然に行われるべきものであって、貧困者に対する施しとして国家の裁量で行われるものでないことは明らかである。

  以上見てきたように、社会保障の道徳的基礎を社会契約に置くという立場に立つと、社会保障の給付についても、その意味合いが異なってくる。特に、税を財源とする給付について、従来の「福祉的発想」(弱者の救済、「施し」的発想)から脱却し、契約に基づく当然の給付として、権利性が強まるという違いがあると考える。(つづく)


(補足)理念論と現実論
  以上述べてきた考え方は、現在の政府の支配的見解ではない。特に、保険料か税か、という点については、保険料の方が権利性が強いという見方が政府では一般的であると思われる。
 この点については、確かに、「保険料」という言葉が、生命保険や損害保険といった民間保険を連想させ、掛けた保険料は返ってくるはずだ、という発想から、受給の権利性が強いという見方につながることは理解できる。そして、そうした見方が巷間で一般的であれば、政治的には理解が得られやすいのも事実である。しかし、理念論としては、先に述べたように、社会保障の財源が保険料、税のいずれであるかという問題は、実は、財源調達の方法論に過ぎず、給付において本質的な違いをもたらすものではないと考える。