社会保障の道徳的基礎②

  前回は、社会保障の道徳的基礎が、従来は相互扶助と社会連帯に位置づけられていたこと、そして、社会経済情勢の変化によってこうした基盤が揺らいでいること、その上で、新しい道徳的基礎として、社会契約に基づく社会保障という考え方を提案した。
  今回は、社会保障の道徳的基礎としての社会契約について、さらに考えていきたい。

  社会契約とは、私の理解によれば、社会の構成員の全体的な合意によって結ばれる仮想的な契約で、社会のあり方に関するルールを定めるものである。民主主義の下で制定される法律は、それが国民の全体的な合意をきちんと反映したものであれば、社会契約が法律という形で明示的に表れたものだと考えることができる。反対に、独裁者が自分の恣意的な判断で社会のルールを定めるならば、それは社会契約に反したルールであるということになる。

 それでは、社会契約は、いかなる場合に道徳的であると言えるのか。社会契約は、全体的な合意があることを前提としているが、合意があるからといって、それに基づく契約が常に道徳的であるとは限らない。例えば、やくざに脅されてアパートから立ち退く契約書にサインするのは道徳的な契約ではない。契約が道徳的と言えるかどうかは、その前提となっている合意が、いかなる条件でなされたものであるかに依存する。
この点について、「正義論」で有名なJ・ロールズは、以下のような議論を展開する。
  社会契約を定めるために、人々が集まったとする。金持ちもいれば貧乏人もいるし、健康な人も病弱な人も、頭がいい人もよくない人もいるだろう。だが、ここでそれぞれの人々は、自分に関する情報を一切忘れる。つまり、自分の性別、人種、出自、健康状態、能力といった一切の情報が分からないと仮定する。
 こうした状況下で、人々は合理的で利己的な個人として、社会契約を定める。そこで定められた社会契約は、皆が平等の条件のもとで合意されたものであるから、道徳的であるはずだ。では、どのような社会契約が結ばれると考えるのか。
  ロールズは、このような仮定の下では二種類の正義の原理が導き出されるという。一つは、言論の自由や信教の自由といった基本的自由をすべての人に平等に与えること、そしてもう一つは、社会的・経済的不平等に関する原則である。この点について、ロールズは、社会的・経済的不平等は、最も不利な状況にある人々の利益になるようなものでなければならない、としている。不平等は認めないと言っているわけではない点に注意が必要だ。例えば、経済的不平等を解消するために、所得の高い人に稼いだ分だけ税金を納めることにしたならば、誰も高い所得を得ようとは思わなくなり、結果としてそれは最も不利な状況にある人々の利益にはならない。そうではなくて、一定の格差を認めた上で、その格差が最も不利な状況にある人々の利益となっているかどうかを問うのである。

 ロールズのこうした考え方は、平等に関するこれまでの議論の視座の転換をもたらす。すなわち、「強者」が「弱者」を助けるのは、利他心や同情心といった観点からではなく、利己的な個人として合意した社会契約に基づく義務である、ということになる。自分がどのような家に生まれ、どんな能力を持ち、どのくらい健康に生まれるのか、といったことが分からない状況の下では、合理的・利己的な判断によって、「もしかしたらビル・ゲイツになれるかもしれない。でもホームレスになる可能性もある。ならば底辺層を切り捨てるシステムは避けた方が無難だ」という結論に至るはずだ、というのがロールズの主張である。

  このような考え方を、社会保障の道徳的基礎として位置づけることによって、社会保障はより積極的な根拠を与えられると考える。社会保障は、年金、医療、介護、生活保護など、その内容は多岐にわたるが、いずれも「持てる者」から「持たざる者」への給付を主な内容とする。前回の冒頭で示した問い―――なぜ、「自己責任」を果たせない人を助けるために負担をしなければならないのか―――に答えるならば、単なる助け合いの精神からそれが必要なのだ、という答えではなく、社会契約に基づき負担しなければならない、という答えとなる。すなわち、自分が「持てる者」の側にいるのはたまたまなのであるから、そのことによって得たものは、同様にたまたま「持たざる者」の側にいる者へと分配することが、正義に適うものである、と考えるのである。

 以上、もっぱら社会保障の負担をする側について議論を進めてきたが、社会保障の道徳的基礎を社会契約に求めることは、社会保障の給付を受ける側についても変化をもたらす。次回、それについてさらに考えていきたい。(つづく)