社会保障の道徳的基礎①

  最近、政府は、社会保障の費用をまかなうために、2010年代半ばまでに消費税率を10%まで引き上げる、という決定を行った。今後、少子高齢化がますます進んで、年金や医療、介護といった社会保障のための費用が増えるから、増税が必要なのだ、という理屈は分かる。だがその前に、なぜ社会保障は必要なのだろうか。老後の生活設計を含めて、若いうちから自分で備えをしておけばよいのであって、なぜ、そのような「自己責任」を果たせない人を助けるために負担をしなければならないのか。
 この問いに対して、リスクに集団的に備えるための保険原理とか、逆選択・クリームスキミングの理論とか、インフレへの対応とか、そういった経済的な観点からの説明も可能である。ただ、今回は、そのような観点ではなく、社会保障の道徳的基礎について考えてみたい。

  道徳的基礎とは、社会保障という仕組みを、正義の観点から基礎づけるとした場合、どんな説明がふさわしいのかを問うことである。言い換えれば、機能や効率性の観点からではなく、公平性の観点から、社会保障の根拠を考えることである。
 社会保障の道徳的基礎については、これまで、世代間あるいは世代内での支え合い、といった説明がされてきた。例えば、平成11年版厚生白書は、「社会保障は、所得の高い人が少ない人を、健康な人が病気の人を支えるといった同一世代内の助け合いや、公的年金制度のように現役世代と高齢世代との世代間での扶養関係や、あるいは家族や地域社会における相互扶助の社会化というように、社会を構成する人々がともに助け合い支え合うという、相互扶助と社会連帯の考え方が基礎となっている」としている。
  つまり、同じ日本人同士、困ったときは助け合おうという考え方のもとで、裕福な人は貧しい人に手を差し伸べることが、若い人は年寄りを支えることが、正義に適うものであるという考え方が、社会保障の基礎になっているということである。

 しかるに、今、問題になっているのは、「同じ日本人同士、困ったときは助け合おう」という考え方が、だんだん弱くなってきているのではないか、ということである。核家族化や共働き家庭の増加により、近所づきあいが減っている。自分が地域のコミュニティに属しているという感覚が薄れている。会社でも、正規社員と非正規社員が分断され、転職をする社員も増えたために一体感を持つことが難しくなっている。成果主義や仕事の高度化が組織の「タコツボ化」を招き、他の社員のことまで気が回らなくなっている。日本全体でみれば、経済成長が鈍化する中で、限られたパイの奪い合いとなっており、利害対立が先鋭化しやすくなっている。要すれば、社会連帯の基盤が弱体化しているのである。
  やや脱線するが、こうした連帯意識の低下は、国の大きさ(人口規模)と無関係ではない。一般的に、小さいコミュニティの方が仲間意識を持ちやすく、集団が大きくなるほど、知らない人が増えるために連帯意識を持つことが難しくなる。社会保障の議論では、いわゆる「高福祉・高負担」の国の典型としてスウェーデンが取り上げられることが多いが、スウェーデンの人口は920万人で、神奈川県とほぼ同じである。スウェーデンの消費税率が25%であるからといって、人口がその10倍以上ある日本でも、同じように消費税率を25%にできるかといえば、ことはそう簡単ではない。

  国民の間に社会連帯の意識が薄くなれば、負担に対して理解を求めることが難しくなる。実際に、なぜ、自分が見ず知らずの他人のために負担をしなければいけないのか、と感じる人が増えている。内閣府が平成20年に実施した調査によれば、社会保障の支え手である若い世代ほど、社会保障による負担増への拒否感が強くなっている。
  冒頭で記したように、今後、少子高齢化が一層進展するなかで、社会保障の給付が増えていくことは避けられない。ところが、それを支えようという意識は低下しているのだ。
 こうした中で、社会保障の道徳的基礎についても、従来の「相互扶助と社会連帯」という考え方から、さらに一歩進んで、より積極的な基礎付けがなされる必要があると考える。それは、「社会契約」を社会保障の道徳的基礎として位置づける考え方である。これにより、社会保障を、単なる「助け合い」から、一種の契約として捉え直し、「弱者」に給付を行うことに積極的な根拠を与えることができると考える。次回、J・ロールズの正義論をひもときつつ、社会保障の道徳的基礎としての社会契約について考えていきたい。(つづく)