名利に使はれて

「名利に使はれて、閑かなる暇なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。」
                 ―――「徒然草」第三十八段

高校生のときにいろいろな古典を勉強した。もちろん受験のためであるが、そのときに諳んじていた内容が、実は今の考え方に結構影響を与えているのではないかと感じている。勉強しているときは、現代語訳の仕方を一生懸命覚えていただけで、内容についてはあまり深く考えることはなかった。ところが、そうした経緯の中で偶然頭に残っていたフレーズが、ふとした瞬間によみがえり、そういう意味だったのかとしみじみと感じるときがある。かつて、子どもたちが寺子屋で「子曰く・・・」という丸暗記をしていたのも、意味は分からなくても、何度も暗唱してそれを体得すれば、やがてその意味が分かるときが来る、ということではないかと思う。

冒頭に紹介したのは、ご存じ「徒然草」の一節だ。論語十八史略もなかなか面白かったが、私にとって一番印象に残っているのは、何といっても徒然草である。特に、冒頭に示した第三十八段「名利に使はれて」で代表的に示されている、いわゆる「無常感」と言われる感覚は、私の人生観に大きな影響を与えている。「無常感」とは、学問的には一定の解釈があるのだと思うが、個人的には、一種の諦観であると思っている。ガツガツして金や名誉や地位を得ても、いつかは自分も死に、やがてすべては無に帰っていく、という、あきらめの境地である。この段は、徒然草の中でも名文とされ、内容もなかなか過激だ。金はトラブルの元になるから山に捨てろ、名誉を求めるのは人に評価されたいという心の表れであり愚かなことだ、何が正しいかなんて誰に分かるものか、といった調子で、こんな内容を全国の高校生が一生懸命勉強していいのか、とすら思うほどである。この文章の最後に、第三十八段の原文と現代語訳をつけているので、興味のある方は是非ご覧いただきたい。

話は変わって、先日、アップル社CEOのスティーブ・ジョブズ氏が、2005年にスタンフォード大学の卒業式で演説した映像を見た。大変印象的で感動的な演説だった(※私も見るまで知らなかったが、とても有名な演説らしく、ウェブで検索すれば動画が見られる。)。本当に素晴らしい演説なので、最後の部分だけ引用するのは気が引けるが、その歴史的な演説は、”Stay hungry, stay foolish”(ハングリー精神を持ち続けよ、そして愚直であり続けよ)という言葉で締めくくられている。ジョブズほどの成功者が、”Stay hungry”というのは、相当に重い言葉だ。これを聴いた人は、「あれだけ成功したジョブズでさえ、ハングリー精神を失わないようにしているのに、自分はどうだろうか?現状に満足して、ハングリー精神を失っているのではないか?」と自問せざるを得ない。

絶えず向上心を失わず、謙虚に学び続ける。アンテナを高くして世の中の動きを敏感にキャッチし、チャンスがあればいつでも打って出られるように準備する。怠惰に流れようとする自分を叱咤激励し、常に上を目指す。―――そうやって、得たものの先に何があるのか。自己実現のその先には何があるのか。
  ―――かわいい子どもたちの寝顔をみていると、ふと、そんなことを思う。




第三十八段 「名利に使はれて」
(原文)
  名利に使はれて、閑かなる暇なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。
  財多ければ、身を守るにまどし。害を賈ひ、累を招く媒なり。 身の後には、金をして北斗を拄ふとも、人のためにぞわづらはるべき。愚かなる人の目をよろこばしむる楽しみ、またあぢきなし。大きなる車、肥えたる馬、金玉の飾りも、心あらん人は、うたて、愚かなりとぞ見るべき。金は山に棄て、玉は淵に投ぐべし。利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり。
  埋もれぬ名を長き世に残さんこそ、あらまほしかるべけれ、位高く、やんごとなきをしも、すぐれたる人とやはいふべき。愚かにつたなき人も、家に生れ、時に逢へば、高き位に昇り、奢を極むるもあり。いみじかりし賢人・聖人、みづから賤しき位に居り、時に逢はずしてやみぬる、また多し。偏に高き官・位を望むも、次に愚か なり。
  智恵と心とこそ、世にすぐれたる誉も残さまほしきを、つらつら思へば、誉を愛するは、人の聞きをよろこぶなり。誉むる人、毀る人、共に世に止まらず。伝へ聞かん人、またまたすみやかに去るべし。誰をか恥ぢ、誰にか知られん事を願はん。誉はまた毀りの本なり。身の後の名、残りて、さらに益な し。これを願ふも、次に愚かなり。
  但し、強ひて智を求め、賢を願ふ人のために言はば、智恵出でては偽りあり。才能は煩悩の増長せるなり。伝へて聞き、学びて知るは、まことの智にあらず。いかなるをか智といふべき。可・不可は一条なり。いかなるをか善といふ。まことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。誰か知り、誰か伝へん。これ、徳を隠し、愚を守るにはあらず。本より、賢愚・得失の境にをらざればなり。
 迷ひの心をもちて名利の要を求むるに、かくの如し。万事は皆非なり。言ふに足らず、願ふに足らず。


(現代語訳)
  名誉や金に追われて、心静かにする暇なく、一生を苦しむことは愚かなことだ。

  財産が多ければ、それを守ることに汲々とするようになり、自分の身を守ることがおろそかになる。金は災いの元である。死後には金を積み重ねて北斗星を支えるほどであっても、後に残った人々にとってはやっかいな代物でしかない。愚かな人の目を喜ばすことはできるかもしれないが、だからといってどうということもない。大きな車、立派な馬、金の装飾品なども、心ある人からすれば、はかなく、空しいものに映るだろう。金は山に捨て、宝石は川に捨ててしまえ。金にとらわれるのは、一番の愚か者である。

 名声を後世に残すのも、確かにそうありたいとは思うものであるが、高い地位に着き、立派な家柄であったとしても、それが優れていると言えるのであろうか。愚かでつたない人であっても、名門に生まれ、タイミングが合えば、高い地位にのぼり詰め、栄華を極めることもある。偉大な賢人・聖人であっても、自ら低い地位に甘んじ、そのまま世を去ることも多い。ひとえに高い地位を望むのも、愚かなことだ。

  優れた知性と精神の持ち主であれば、世間で名を残したいと思うものであるが、よくよく考えてみると、名誉を愛するというのは、人の評判を聞いて喜ぶということである。ほめる人もけなす人も、ずっとこの世にいるわけではない。それを聞く人も、またいずれこの世を去るのである。誰に対して恥じ、誰に認められたいと願うのであろうか。名誉はまた非難の元になる。自分が死んだ後に名声が残るのは、さらに無益だ。これを願うのも、次に愚かなことだ。

 ただし、ひたすらに知識を求め、賢さを願う人のために言えば、知恵が高じて偽りが生じてきたのである。才能は煩悩が増長したものだ。習い聞いたり、書物を学んで知ったりするのは、本当の知ではない。何を知というのか。良い悪いは裏表である。何を善というのか。本当の人物は、知もなく、徳もなく、功もなく、名もない。誰が知り、誰が伝えるというのか。これは、本当の人物が徳を隠し、愚かなふりをしているからではない。もとより、賢いとか愚かとか、損得の境地にはいないからである。

  迷いの心を持って名誉や利益を求めると、このようなことになる。すべては否定されるべきものだ。わざわざ語るほどのことではないし、願うほどのものでもない。