日本の統治機構の特徴〜参議院不要論に思う〜②

  前回は、参議院不要論をきっかけに、日本の統治機構が、保守的に設計されていることについて記した。今回は、国の意思決定プロセスが保守的な思想の下に設計されている理由について、さらに考えていきたい。

  統治のツールとして最も典型的かつ実効力があるものは、法律である。法律は、通常、権利の創設や侵害といった内容を含む。言い換えれば、財産権の保護や罪刑法律主義といった原則に基づき、個人の権利や義務の創設は、法律によってしかなしえない。そして、そうして創設された権利・義務は、通常、それに違反した場合の罰則によって最終的に担保される。任意の私契約を基本とする民間サービスと比較すれば、国の制度は、程度の差こそあれ、人々にその適用を強制するところに大きな違いがある。マックス・ウェーバーは、国家とは、正当な物理的暴力行使の独占を要求する人間共同体である(「職業としての政治」)、と言っているが、法律は、それに違反した場合の逮捕・拘禁・代執行といった「物理的暴力行使」を正当に行う権限を国に与えることになる。

  私は、一昨年、育児・介護休業法という法律の改正に携わった。育児・介護休業法は、育児休業などが取れるようにすることを会社に義務づける法律で、法違反の指導に従わない場合には罰則(過料)が課される。法律が改正されると、その内容を会社の人事担当者などに説明するために、全国各地で説明会を開催するが、私は、法律改正の担当者として、数十回と改正法の内容を説明した。育児休業制度は、労務管理の中ではそれほどメジャーな制度ではないが、それでも、説明会にお越しになった方からは、こういう場合はどうなのか、こういう取扱いをしたら違法なのか、といった、非常に具体的で細かい質問が相次いだ。会社からすれば、もし、万が一にでも法律違反ということになれば、罰則の適用はもとより、信用低下や訴訟リスクといった大きなダメージを受ける可能性があるから、自社の場合はどうなんだ、ということに非常に敏感になるのは当然だ。私は、説明会で説明をするたびに、会場の熱心な雰囲気に身が引き締まる思いだった。そして、これが法律を改正し、制度を強制的に適用することの意味なのかと、権力の凄まじさにおそれを感じるほどだった。

  法律が、こうした強力な権限を国に与える(あるいは国民の権利を制限する)側面があるからこそ、その制定・改廃には慎重な手続きが求められる。統治機構が保守的に設計されているのも、このためである。参議院について言えば、前回も記したように、その存在はいっときの勢いだけで変革を行うことを難しくしているが、その背景には、民意もときには間違うことがあり、特に、一時的なブーム(熱狂)で誤った判断がされないよう、やや時間を置いて判断して、それでも結果が変わらなければ変革をする、という思想があるように思う。民衆が煽動されて、誤った結論とならないよう、いわば、参議院は一種の安全装置として設置されているということができよう。

  もちろん、だからといって意思決定に時間がかかるという批判は見当違いだというつもりはない。社会や技術の変化のスピードがどんどん速くなっている現在、政治の意思決定だけが旧態依然のままで良いのかという指摘はもっともだし、変革しない(できない)ことのリスクの方が大きいという議論もあろう。ただ、一方でねじれ国会が常に発生しうる状況になったのはごく最近のことであることにも留意が必要だ。ねじれ国会の下での議会運営については、与野党ともに経験が十分であるとは言えず、現在は、両者ともに手探りで進めている面もある。衆議院参議院の議決が異なった場合に開かれる両院協議会についても、ここで意見の調整が図られたことはほとんどないが、一方で改革が必要ではないかといった提案もされている。ねじれ国会の下で、どのように合意に至るか、そのためにどういった議論や修正、そして取引をするのか、日本の国会は今まさに真価が問われていると思う。こうした状況の下では政権闘争が激しくなりがちであるが、総理が辞めるか辞めないかばかりに注目が集まるのは残念だ。政策の中身よりも、いかにして政権を奪取するか(あるいは守るか)ということが優先されれば、政治に対する不信が高まるだけだからである。

※以上のことは、国の統治機構についてであり、地方の議論はまた別である。例えば、知事や市長は住民の投票で直接選ばれるなど、大きな違いがある。


備忘メモ:悪法もまた法なり、総理の権限