アメリカ人は倫理がお好き

7年前、アメリカの大学院に留学する機会があり、公共政策学を学んだ。その際思ったことは、倫理を扱う講義が多いな、ということである。どんな授業を取っても、だいたい一回は、”ethics”, “moral”, “integrity” といったテーマの講義がある。例えば、ある授業では、杉原千畝ドキュメンタリー映画のようなものを見て、杉原が取った行動について討論をするというものがあった。あるいは、ネバダ州の湿地保護を巡る不正について、それを摘発した職員のケーススタディといった講義もあった。
杉原千畝は、大戦中、リトアニアの領事館に赴任していた外交官で、ユダヤ人などに対して、外務省の訓令に反してビザを発給し続け、何千人もの命を救ったとされる人物である。授業では、領事館が閉鎖され、帰途につく杉原が、汽車の中でもビザを書き続け、それを車窓から発給する場面が放映された。とても印象的なシーンだった。

倫理が問題となる具体的な場面は、杉原千畝の例でも明らかなように、組織の論理と、個人の倫理がぶつかる場合だ(杉原は、外務省の訓令に反してビザを発給していた。)。したがって、まず問題となるのは、組織の論理と個人の倫理のどちらを優先させるべきか、という点であるはずである。ところが、授業の中では、組織の論理より、個人の倫理が優先するのが当然であり、肝心なのは、個人がどのような倫理を持つかだ、という議論が多かったように思う。社会人経験のないアメリカ人が多かったせいもあるかもしれないが、「自分がどう考えるかがもっとも重要だ」というアメリカ人的姿勢の典型的表れであるようにも思う。

一方、日本ではどうか。「智に働けば角が立つ」とは、夏目漱石の「草枕」の冒頭である。日本人であれば誰もが聞いたことのあるこのフレーズ、よくよく考えているとなかなか意味不明で、これをアメリカ人に理解させるのはかなり難しいのではないだろうか。なぜ、智に働くと角が立ってしまうのか。論理的に考えれば、智に働かないから角が立つ(逆に言えば、角が立たないように智を働かせる)のであって、この表現に違和感を覚えない感覚というのは、極めて日本的であると思う。そしてこの文章は、「〜意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」と続く。先ほどの比較で言えば、日本人が、個人の倫理より組織(集団)の論理を重んじる雰囲気を良く表していると思う。

私は、個人の倫理を重視するアメリカの方が、組織の論理を重んじる日本より良いというつもりは毛頭ない。アメリカに住むと、日本人であってもきちんと話を聞いてくれる反面、何をするにもいちいち相手に説明(交渉)しなければならず、まさに、「意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」ということを実感することがある。言うまでもないことだが、それぞれにメリット・デメリットがあり、単純にどちらが良いということはできない。ただ、アメリカ人がなぜ個人の倫理を大事にするかを考えたとき、真の民主主義は、確立した個人の上にはじめて築かれるものであり、したがって一人ひとりがどのように考えるかが最も大切だという、多民族国家の中で民主主義を作り上げてきたアメリカ人の信念のようなものを感じるのである。