新・働き方を見直す1 〜働くことの意味を問う〜

 働き方をどう見直していくか、これまで、このブログでも数回にわたり議論してきたが、「働き方の見直し」が大きな政策課題となっている今、改めて働き方の見直しについて考えてみたい。

 働き方の見直しを議論するに当たって、まず、働くということの意味について考えたい。
 最近、働くということが、ネガティブに捉えられすぎではないだろうか。「ブラック企業」はその典型であるが、「長時間労働」、「過労死」、「社畜」など、マイナスイメージの用例には事欠かず、こうした言葉使いからは、働くということが、単なる苦役のようにすら感じられる。3〜4年前だったか、「ディーセント・ワーク」という言葉が使われていた時期があり、これは、ディーセント=ちゃんとした、きちんとした、ということで、「きちんとした人間らしい仕事」という意味だった。これには、働くということの前向きなイメージが含まれていると思う。でもこれはあまり流行らなかった。「ブラック企業」と言って一刀両断する方が分かりやすいということだろうか。

 確かに、「ブラック企業」は取り締まらなければならないし、不当な労働条件は改めていかなければならない。しかし、働くということは、決して単なる労働力の提供ではないし、単なる生活の糧を得る手段でもない。働くことについての積極的な側面を見落とすべきではない。

 政府の数多くの審議会の委員を歴任し、国立社会保障・人口問題研究所の所長も務めた塩野谷祐一氏は、その名著「経済と倫理」の中で、行為の価値概念としての「効率」、制度の価値概念としての「正義」というこれまで議論されていた枠組みに加え、存在の価値概念としての「卓越」という観点を提示した。氏によれば、「卓越」とは、個人の自発性と多様性の追求、道徳能力の陶冶、公共的精神の育成、自己実現への努力、創造的能力の発揮、人格の尊厳といった価値を表すとされ、「効率」がフローとしての人間像に着目するのに対し、「卓越」はストックとしての人間像に着目した上で、「良き生」の理論として展開されるものであるという。
 私は、働くこととは、こうした「卓越」の実践に他ならないと思う。ひとは、働くことを通じて、仲間と協調し、ライバルと競争し、困難に打ち克ち成果を上げ、あるいは挫折し、そうしたプロセスの中で成長していく。こうした「卓越」の観点から働くことを捉え直すことは、氏の議論に即していえば、従来の賃金の水準が高いか低いかといった「フロー」に着目した議論から、その仕事を通じて成長できるかどうかといった「ストック」に着目した議論をする、ということになる。

 逆に言えば、こうした「卓越」という価値を実践するような働き方になっているかどうか、それを確認しなければならない。例えば、健康を損なうような環境で長時間働くことを余儀なくされたり、(いわゆる追い出し部屋のように)非生産的な単純作業を延々と繰り返すような働き方は、それに適正な対価(賃金)が支払われているかという問題以前に、「卓越」の実践たる働き方とは言えないだろう。これはいささか極端な例かもしれないが、では例えば「ブラック企業」での働き方がどうなのか、あるいは派遣労働者の働き方がどうなのか、といった議論をする場合に、その働き方が「卓越」の観点に照らしてどうか、ということが判断基準の一つになるのではないかと思う。

 現在、「同一労働同一賃金」の実現が議論されているが、これは、労務の提供に対する対価(賃金)が適正な水準となっているか、という論点であり、それはそれで重要な論点であるが、その前に、そもそもの労働の内容が適正かどうか、すなわち「労働の質」が問われるべきではないだろうか。やりがいのある仕事かどうか、能力を活かせる仕事かどうか、成長できる仕事かどうか、といった「労働の質」を問うことを通じて、働くことの意味を再確認することが必要である。
 もっとも、「労働の質」を問うた結果、改善すべき点が見つかったところで、では、政策として何ができるのか、というのはまた別の問題だ。労災事故の防止や安全衛生の確保といった最低限の規制は必要であるにしても、単純・定型的で必ずしも労働者の成長につながらないような業務が現に存在し、労働者にとってもそうした業務であっても仕事がないよりまし、ということであれば、仕事の内容に政府がどこまで手を突っ込むべきなのか、というのは難しい問題である。

 だからといって、働くことの意味について論じることを諦めるべきではないだろう。落語の「芝浜」や最近では「プロジェクトX」の例を持ち出すまでもなく、日本人にとって働くことは美徳とされてきた。そうした見方が、最近変わりつつあるのかどうか。働くことの意味を、今、改めて確認することが必要だと思う。